本の紹介:吉浜のつなみ石 ― 2015/02/01 10:44
吉浜教えの里プロジェクト・企画制作,吉浜のつなみ石.2015年1月.
昭和三陸津波で運ばれてきたつなみ石が,津波記念石として吉浜に置かれていました.この地震津波は,1933(昭和8)年3月3日の夜中の2時30分に起きました.マグニチュードは,8.1でしたが地震による被害はそれほどでもありませんでした.主に津波による死者が岩手県を中心に1,500人以上に及びました.
このつなみ石は,その後,道路工事で埋められていましたが,3.11津波によって頭が現れました.これを掘り起こしたところ表面に刻まれた文字が現れ,昭和三陸津波で運ばれてきたつなみ石で作った記念石だと分かりました.
この本は,つなみ石が掘り出されるまでの絵本が最初に載っています.英文付きです.そして,絵本の作者の小松則也さん,枛木澤正雄(はのきざわ・まさお)さんの文章が載っています.
吉浜は,村の人口の約2割の人(約210名)が亡くなった1896(明治29)年6月2日の明治三陸地震津波のあと高台移転をしました.そのために,昭和三陸津波では死者は17名でした.
3.11地震津波での吉浜地区での犠牲者は行方不明者1名でした.
今回の津波遡上範囲と吉浜地区の住居の分布が航空写真で示されています.吉浜川河口の低地には住宅はなく,水田が広がっています.
その他,様々な活動が紹介されています.
「吉浜のつなみ石」申し込み用紙
吹雪の中のおおたき国際スキーマラソン ― 2015/02/09 21:26
おおたき国際スキーマラソンの会場
重たい雪が風に舞っています.スキーはよく滑りました.このどんよりとした空には,ちょっと憂鬱になりました.
2015年2月8日(日)に開かれた「おおたき国際スキーマラソン」の15kmに出ました.
これまではホロホロ山荘に泊まっていたのですが,今年はちょっと外れた蟠渓温泉の湯人屋(ゆのとや)に泊まりました.
これが正解.こじんまりとした良い温泉宿でした.食事も最高で,食べきれないほどでした.戦後育ちの人間としては,出されたものはすべて食べないとだめという観念がありましたが,さすがにギブアップ.
風呂はこぢんまりとしていますが,露天もあり身体がポカポカになりました.あまり気持ちが良くて,次の日の大会のことも忘れて,500ミリリットルの缶ビールを開けてしまいました.
夕暮れ迫る湯人屋の外観
こぢんまりとした清潔な建物です.
湯人屋の夕食
おかずの量はかなり多いです.酒を飲みながら食べるのにちょうど良い量です.
当日は吹雪でした.スタート地点は長流川(おさる・がわ)沿いの河原ですので,まだ良いのですが坂を登った4km過ぎからは猛烈な風でした.おまけに吹溜りが所々に出来ていて歩くのもやっとという状態.逆に追い風だと漕がなくても滑っていく.スキーはよく滑ったのですが,例年に比べて20分ほど余計にかかりました.
それでも,転ぶことなく無事「歩き」終わることができ,多少の達成感に浸ることが出来ました.
レースのあとは,「御宿かわせみ」で汗を流しました.露天風呂は長流川に面していて,なかなか良い気分でした.レースに出たと思われる人が,結構来ていたのにはびっくりしました.
雪の三階滝
遊歩道は除雪してありましたが,人っ子一人居ませんでした.
本の紹介:一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 ― 2015/02/12 10:36
内田 樹・中田 考,一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教.2014年2月,岩波新書.
思想家で武道家の内田 樹氏とイスラーム学者でイスラーム教徒である中田 考氏との対談である.
まず,イスラームとは何か,から始まって,一神教の風土について話しています.
横道にそれた話ですが,日露戦争の時,日本の公債を買い取ったのが,ジェイコブ・シフと言うユダヤ人を中心としたユダヤ金融ネットワークだったそうです.また,石原莞爾が,満州にユダヤ人を集めて,その資金と技術力と知識を使って一大産業王国をつくろうという計画を練り上げたといいます.ここから,日猶同祖論(にちゆ・どうそろん)が出てきたそうです.
ユダヤ教もキリスト教もイスラームも一神教です.ユダヤ教は国を持たない民が作った宗教であり,キリスト教は定住した民俗が信仰した宗教という性格を持っています.これに対して,イスラームは遊牧民の宗教です.遊牧民は一箇所に留まらず移動していると同時に,交易の文化を創り出しました.これが,イスラームの性格を大きく規定しているそうです.
中田氏はカリフを復活させたいと考えています.カリフというのは,イスラーム共同体を率いる政治的な後継者であり,同時にアッラーの意志であるイスラーム法を代行する者のことです.これによって,モロッコからインドネシアまでの広大なイスラーム圏ができ,資源を適切に分配することで連帯と相互扶助のシステムが賦活させることができると言います.
話は大変面白いのですが,現在のイスラームの宗派間の争いを見ていると,前途多難だなという感じがします.
第15回 北大人文カフェ 幕末維新のサツエキ周辺 ― 2015/02/15 11:31
今回は,北大文学部の谷本晃久准教授です.途中からしか聞けませんでしたが,なかなか面白い内容でした.
北大構内をサクシュコトニ川が流れていますが,ここには鮭が上ってきていました.流域のアイヌを束ねていた琴似又一が屋敷を構えていたと言います.その後,旭川の近文に強制的に移住させられ,主な生業であった漁業を奪われてしまいました.
北大植物園から知事公館にかけては豊平川扇状地末端の湧水があったところで,地質的にも面白い場所です.今回の話で,サクシュコトニ川跡が空き地になっていることを教えられました.河川敷であるため住宅が建てられていないのだそうです.
おそらく100人以上の人が話に聞き入っていました.質問も多く出されていました.
この紀伊國屋書店札幌店での催しは,申し込みの必要がなく当日行けば聞くことができ,しかも非常に内容の濃い話が聞けます.
震生湖 ― 2015/02/28 10:59
1923(大正12)年9月1日の関東地震で地すべりが発生し,沢がせき止められてできたのが,秦野市の震生湖である。
現地の看板によれば,震生湖の面積は13,000平方メートル,沢方向の長さが315m,最大幅85mで,最大水深は10mである。
せき止められた沢は,二宮町山西で相模湾に注ぐ中村川支流の藤沢川のさらに枝沢で,市木沢と呼ばれている。震生湖の流域面積は,0.15平方キロメートルとされている(井上ほか,2015)。
地震によって地すべりを起こしたのは,市木沢の左岸で頭部の標高は約170m,湖面標高は153mである。関東地震前後の2.5万分の1地形図を見ると,地すべりを起こしたのは尾根状の部分で,沢のやや下流に向かって移動したようである。
地すべりは角形で,奥行き約200m,幅約195mである。面積は3.9万平方メートル,全移動土砂量は19.6万立方メートルとされている(井上ほか,2015)。
渋沢丘陵と呼ばれるこの付近は,箱根火山・富士火山の火砕岩類が厚く堆積している。北側から震生湖に降りて行く道があるが,この道は地すべりの滑落崖に沿っていて半固結の火山砕屑岩類が露出している。震生湖左岸の遊歩道にも露頭がある。
なお,震生湖の位置は,35.35998N,139.211315E である。
<参考文献>
井上公夫・相原延光・笠間友博,2015,関東大震災・現地見学会 秦野駅から震生湖を歩く.地理,60−2,68−76.
*この文献は,
<http://www.sff.or.jp/content/uploads/H26chiri6002.pdf.pdf>
で口絵カラーを含めて見ることができる。
写真1 右岸から見た震生湖
正面は地すべり移動土塊の末端付近である。平坦な面を形成していて,全体としてストンと落ちて移動したような印象である。
写真2 震生湖のくびれ部分
古い地形図では震生湖は二つの分かれている。現在はくびれを作っていて左側が地すべり移動土塊である。
写真3 上流側から見た震生湖
この時は,上流からの水の流入は見られなかった。湖岸の様子から,水位はほとんど変動していないと考えられる。正面の左から張り出している尾根状の地形が地すべり移動土塊である。
行楽地特有の音楽などの騒音がなく静かである。1.3kmほど南を通る東名高速道路の車の音だけが潮騒のように聞こえる。
写真4 地すべり移動土塊
正面が沢の出口である。滑落崖直下でほとんど平坦である。右の林も移動土塊で,おそらく対岸にぶつかって盛り上がったのだと考えられる。
写真5 滑落崖の一部
西側の滑落崖に沿って湖へ降りていく道がある。急崖になっていて火山砕屑岩が露出している。
写真6 左岸の遊歩道で見られる火山砕屑岩
写真7 震生湖左岸の丘陵
標高170mほどの左岸尾根から東を望む。左側は秦野盆地で,盆地との境界を東西性の渋沢東断層が通っていて,比高60mほどの撓曲崖となっている。