株式会社ユニオン・コンサルタント 創立五十周年記念講演会2023/10/10 14:41

 運良く2023106日(金)に開かれた表記講演会に出席することができました。

 最初にユニオン・コンサルタントの関根幸博社長が簡単な挨拶をしました。「ユニオン」という社名には分野統合という意味を込めているとのことでした。

 来賓として、北海道土質試験協同組合の舟田孝太郎理事長が挨拶しました。ユニオン・コンサルタント創業者の故斎藤昌之氏(1917年〜2014年)は、土質試験組合が危機の時に理事長を引き受け、21年間にわたり理事長を務めました。その後、同社の河野純一氏、関根幸博氏も理事長を務めたことを紹介しました。

 

 講演は次の二つでした。

 地方独立行政法人 北海道立総合研究機構 産業技術環境推進本部 エネルギー・環境・地質研究所所長の大津 直(おおつ・すなお)氏:北海道における5万分の1地質図幅について

 国立大学法人 小樽商科大学大学院商学研究科(小樽商科大学ビジネススクール)准教授の泉 貴嗣(いずみ・よしつぐ)氏:次の50年を切り開く生存戦略、ESG経営の途(みち)

 

大津氏

講演する大津 直氏

<大津氏の講演>

 まず自己紹介です。

 大津氏は三笠で生まれ、夕張で育ちました。小学生の頃、井尻正二の「いばるな恐竜僕の孫」(伊藤章夫・絵、1972年刊)という漫画を読んで、井尻の出身である東京大学へ行きたいと思いました。偶然アンモナイトを発見したこともあり、「原色化石図鑑」(保育社)を買ってもらいました。また、井尻正二・湊 正雄「地球の歴史」(岩波新書、1974年刊)や松井 愈・吉崎昌一・埴原和郞 編「北海道創世記」(北海道新聞社、1984年刊)を読みました。

 北大理学部地質学鉱物学科に進み、修士1年の時に地下資源調査所へ行かないかと言われ、1990年に同調査所に入所し、開発技術科に配属になりました。

 

 北海道の地質調査の歴史の概要を見ると次のようです。

 1873年にアメリカからB.S.ライマンが来日し、北海道で主に石炭の調査を行いました。この地質調査の時の図面(ルートマップ:5,000分の1)の複製が小樽鉄道博物館に展示されています。この図を見ると、石炭露頭を発見すると、それを追って分布を明らかにしていることが分かります。必要なところは表土を剥いで露頭を確認しています。

 1950年に北海道開発庁が発足し、同時に道立地下資源調査所が発足しています。さらに、1973年に資源エネルギー庁が発足しています。地下資源調査所は、2020年にエネルギー・環境・地質研究所となりました。

話は戻りますが、ライマンの弟子に坂 市太郎(ばん・いちたろう)がいます。三笠の幌内炭鉱を発見し夕張川を下って夕張炭鉱開発の端緒となった石炭の大露頭(合計24尺の厚さ)を発見しています。この当時は、アネロイド気圧計で標高を測って地層の走向を追いました。地層の走向・傾斜の「走向」という言葉は坂市太郎の「・・向イテ走レリ・・」に由来しているらしいです。

 

 5万分の1地質図幅の話です。

 地質図ではなく地質図幅とよぶのは、四角の図郭(地形図の区画)の中の地質をもれなく表記していることから来ています。

斎藤昌之、小山内 煕、鈴木 守、山口昇一氏が描いた地質図幅について述べます。

 斎藤昌之(1917-2014)ほかの「留寿都図幅」(1956)の中に留寿都層というのがあります。この地層が問題だとされています。この地層は、今では洞爺火砕流堆積物とその上位の二次堆積物(段丘堆積物)であることが分かっています。ただし、留寿都図幅の範囲では、この二次堆積物は平面図に表現できる(マッパブル)ほどの規模でないのです。このような現象は、支笏火砕流堆積物の上面でもよく見られます。

 小山内 煕(1927-1994)ほかの「石狩金山図幅」(1958)は、断層だらけで意味不明(地質分布が読み取れないという意味だと思います:筆者)と言われました。しかし、小山内さんのルートマップを宝物として持っていた「地下資源調査所」の図書司書・佐藤さんに見せてもらった図面は、記載内容、ルートマップの描画に衝撃を受けました。メランジュのルートマップでした。メランジュの概念は1968年にK.J.Hsuが提唱したもので、その10年以上前にルートマップでメランジュの特徴を把握していたのです。当時の地質図法では断層で切り刻むしか表現方法がなかったのです。

 鈴木 守(1919-1995)ほかの「イドンナップ岳図幅」(1961)では、図幅のほぼ中央を横切る断面図を作成しています。この断面図は、今見てもほぼ実態に合っています。鈴木の死後に出版された「山岳トンネルの地質−体験的トンネルの地質論−〈未完〉」(鈴木 守著、冨田宏夫編著、鈴木守「山岳トンネルの地質」編集委員会編、2002)は、「鈴木 守さんが、そばに座っていて酒を飲みながら語っている感じで進む不思議な著書。冨田さんの編集に脱帽」(当日配付資料より)。

 山口昇一氏(1930-)は、庁立札幌工業学校採鉱科を卒業して北海道工業試験場に入所後、地質調査所北海道支所に入所しました。「忠類図幅」(地域地質研究報告 5万分の1地質図幅「忠類地域の地質」、山口昇一・佐藤博之・松井 愈、2003)は、高く評価されている「山口マップ」の中ではあまり紹介されたくない図幅かもしれませんが重要な資料です。ナウマン象化石は、道路切土の泥炭層の中から見つかったのですが、この泥炭層に礫が点在していました。この礫は、象が足で踏んだために泥炭の中にめり込んだのではないかと言ったため大変なことになりました。

 

 これからの地質学についてです。

 これからは「地質リスク」への対応の時代になります。全地連、北海道開発局、国土交通省などで地質リスクマネジメントの対応が始まっています。ただし、リスクマネジメントで排除可能なリスクは良いのですが、リスクとして想定すべきかどうかで意見が分かれる場合は、どうするのか悩むところです。

 これに関連して、レジリエンス・エンジニアリングという考え方があります。これは、先を見越して、うまくいくように行動することでリスクを回避するという考え方です。運良くうまくいった成功体験を通じて、うまくいく方法をグループで討論し検討するのが良いのではと考えています。

 

泉市氏

講演する泉 貴嗣氏

<泉 貴嗣氏の講演>

 ESGというは、環境(Environment)、社会(Social)、組織統治(Governance)のことで、この三つの問題が深刻化しビジネス環境が悪化しています。大気汚染、土壌汚染・砂漠化、水質汚染・水資源の枯渇、鉱物・エネルギー資源の枯渇、地球温暖化、生物多様性の減少、国際紛争の激化、難民・貧困・経済格差などといった問題です。身近なESG問題を解決することは、これからの企業にとって経営問題です。

 企業にとってのESG経営とは、ESG問題の抑制・解決を「本業」で実践すること、実践によって事業リスクを抑制すること、成長可能性を高めることです。ポイントは「本業」として実践することです。

 また、リアクティブ思考からプロアクティブ思考(セイフティII)に切り替えることが大事です。つまり、ゴールを決めて、そこから逆算(バックキャスティング)して経営計画を立てることです。

 組織の運営としてはメンバーのリーダーシップを引き出すサーバン ト・リーダーシップ、「学習する組織」という企業文化を創ることが大事です。

 そして、倫理観が最上位の能力であり、ESG経営の原動力になります。

 

感想

 大津さんの話は納得することが多いです。

 例えば、留寿都層は新幹線の調査で遭遇したことがあります。露頭で二次噴気孔が見られるので火砕流であろうと考えていましたが、一体どの火山からの火砕流か分かりません。不思議な堆積物でした。

 ライマンたちが作成したルートマップの原図は、北大図書館にあると思います。一度、現物を見たことがあります。墨入れをした図面で等高線がきちんと入っていて、石炭露頭を追って分布を抑えていました。確か、埋蔵量の計算がルートマップに書かれていたと思います。まさに、超人的な仕事をしました。坂 市太郎ほかの弟子たちの能力も高かったと思います。

 斎藤昌之さんは、1941(昭和16)年に北大地質学鉱物学教室を卒業しています。橋本誠二、舟橋三男と同期です。地下資源調査所に入ってからも舟橋先生のところには、よく来ていたようで、何回かお会いしたことがあります。

 鈴木 守さんの「山岳トンネルの地質−体験的トンネルの地質論−〈未完〉」は、スケッチや説明図、地図が多く掲載されていて、非常に分かりやすい内容になっています。鈴木さんは、ちょっとしゃがれた声の早口でしゃべるのが印象的でした。

 

 泉さんの話は、50年後を見通して、倫理観がスキルや知識、ネットワーク、意志決定をコントロールする最上位の能力だと位置付けているのが印象的でした。

 ESGUCASDGsSDGsウォッシュ、QCDSPP、プロアクティブ、バックキャスティング、BAL、サーバント・リーダーシップなど、頭に入れて日々の業務で生かさなければならないことが一杯です。



本の紹介:福島からの手紙2023/10/10 20:59

福島からの手紙

関 礼子編、福島からの手紙 十二年後の岩発災害。新泉社、20238月。

 

 福島原発事故から一巡り、十二年が経ちました。

 被災した人たちにとって、原発事故はまったく終わっていません。

 

 手紙を書いているのは、二本松市、伊達市、郡山市、いわき市、飯舘村、浪江町、広野町、楢葉町、南相馬市小高地区、そして浪江町津島の人びとで、全部で17人です。浪江町津島の人たちは故郷に帰れない状態が続いています。

 

 津島は福島第一原発から北東に約30kmで、請戸川上流に開けた谷の中にあります。津島から避難している人たちの文章を読んでいると、津島が本当に良いところだと分かります。山の恵みの豊富な自然もそうですが、ここに住む人たちのつながり、つまり「津島の田植踊」に象徴される縦のつながりと「結いの精神」で互いに助け合う横のつながりが脈々と生きている集落であったことが感じ取れます。

 

 編者の関 礼子氏は、立教大学の教授で環境社会学・地域環境論が専門です。

 「編者あとがき」からの一節を次に記します。

  十二年経っても忘れ得ず、伝えられていく思いがある。「このような災害が二度とおこらないことを願う」気持ちを否定する人はいないだろう。

 

 この文章の前に、橘 厚子さんの「十二年目のお礼」という一文が載っています。

 

<必 読>

福島を語る(4)「帰れない村」の現実。imidas2022120日。石井ひろみ三浦英之。

 https://imidas.jp/olympic/1/?article_id=l-89-020-22-01-g787   



立山砂防国際シンポジウム2023/10/24 17:50

 20231021日(土)、午後130分から同500分まで富山国際会議場メインホールで表記シンポジウムが開かれました。YouTubeでのオンライン配信を視聴しました。

 最初に、新田八郎・富山県知事の主催者挨拶、国交省の草野愼一砂防部長と文化庁の大川室長の来賓挨拶(代読)がありました。

 

立山砂防シンポジウム

立山砂防国際シンポジウムの案内

 

基調講演:筑波大学大学院准教授の下田一太氏「日本の世界遺産の動向~資産形成と推薦へのアプローチ~」

 下田氏は建築学が専門で、2007年から2013年までカンボジアのアンコールワット、ヴェトナム、ミャンマー、インドネシアで遺跡の保存・修復作業に携わりました。

 アンコールワットなどの遺跡群は、50kmほどの範囲に都市群が点在していて8km×2km規模の貯水池を造って水の監理を行っていました。水の管理に失敗したことがアンコール王朝の滅亡を招いたとも考えられています。

 アンコールワットの南東約140kmにあるサンボ―プレイクック遺跡では1300年前にダムや貯水池を造っていました(注:この遺跡の東にはトンレサップ湖に流れ込むセン川があります)。

 

 日本の文化遺産は、長崎の潜伏キリシタン関連遺産、沖ノ島、百舌鳥・古市古墳群、佐渡金山など25か所があります。世界遺産条約は、自然や文化を保護するための条約で、利用による経済効果を期待するジオパークとは趣旨が異なります。保護が確実に行われることで世界遺産の候補となります。

 2007年、日本は推薦する世界遺産の暫定一覧表を作成しました。四国八十八箇所霊場と遍路道、錦帯橋と岩国の町割などです。

 日本で世界遺産一欄表に登録するには十のカテゴリーのどれかを満たす必要があります。立山砂防の場合、「II. 建築,科学技術,記念碑,都市計画,景観設計の発展に重要な影響を与えた,ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである」が該当するでしょう。さらに、自然との共生や災害対応も該当項目とすることが可能でしょう。

 

 世界遺産の推薦書には、価値の所在、価値の根拠物件、価値の証明、価値を保護する地域、価値を保護する方法を記載します。例えば、富士山の場合、富士信仰が伝統・思想・信仰の価値を、北斎の赤富士などが西洋絵画への影響(文化の交流)を与えたことが価値の根拠となりました。

 

 立山砂防の場合、SABO技術の世界的な交流に貢献し世界に影響を及ぼしています。土木工学的に傑出した技術の代表であり、人と環境のかかわりを示しています。過酷な自然の驚異に対する人類の英知の結集です。

 根拠物件としては、立山カルデラ内の泥谷堰堤、カルデラ出口の白岩(しらいわ)堰堤、常願寺川中流付近の本宮堰堤の砂防施設があり、江戸・明治・大正の歴史的施設があります。国内の代表的な施設との比較や世界での比較対象遺産との関係も大事です。

 価値形成事例として、造った人、造った思想が分かるという点で近代化遺産であり産業遺産に該当します。日本での過去の産業遺産としては佐渡金山、軍艦島、富岡製糸場などがあります。

 現在も生きている遺産としては、ル・コルビュジェが設計した上野公園にある国立西洋美術館があります。都市の開かれた美術館という考えで設計されたものです。同時に、無限成長する美術館として、らせん状に成長することが期待されていました。1997年に建物の基礎を免震構造とし、2022年には改修工事を行って南西側の前庭の地下に企画展示室を増設しています。当初の設計思想を生かしながら、時代に対応して変化している世界遺産です。

 

 立山砂防の場合、全体と個々の施設の関係、砂防に関してのオリジナルなアイディア・コンセプト、設計思想、構造の理念、運用指針などが重要です。

 カルデラ内の立山砂防の施設を誰もが気軽に見ることはできないので、価値を伝える仕組みが必要です。参考になるのは石見銀山の世界遺産センターのヘッドマウント・ディスプレイによるバーチャルリアリティの映像「VR銀山」です。

 今後、気候変動による海面上昇、土壌温度・地下水位の上昇、気温・降雨全般などが世界遺産に及ぼす影響を考える必要があります。立山砂防の場合、極端気候への対応、土砂崩れの多発、自然回復力・メンテナンスなどが有利に働きます。現在も稼働する施設として保存管理計画や変化・更新を行う遺産として、本質的価値を失わず本質を維持するために施設を更新することが必要です。

 

報告:竹内氏(富山県地方創生局)「富山県の立山砂防の世界遺産登録に向けた取り組み

 立山カルデラは、年間降水量が5,000mmあり、カルデラからは常願寺川が流れ出ています。1858(安政5)年の飛越地震(マグニチュード7.1)によってカルデラ内で大崩壊が発生しました。崩壊地は大鳶(おおとんび)クズレ(現在は、鳶山崩れ)と呼ばれ、天然ダムの形成と決壊によって富山平野を大土石流が襲いました。崩壊土砂のうち2億立方メートルと推定される土砂がカルデラ内に不安定なまま堆積しています。

 1906(明治39)年に富山県営の砂防事業が始まり、1926(大正15;昭和元)年に国直轄砂防事業に移管されました。この間、1914(大正7)年に大出水がありました。

 2017年、白岩堰堤、本宮堰堤、泥谷堰堤と立山砂防工事専用軌道が「日本の20世紀遺産20選」に選定されました。

 立山砂防の世界遺産としての意味は、防災の総合技術、総合的な水系管理技術、近代的な防災技術にあります。国際語となっているSABOを世界に説明できるか、砂防の機能を維持しながら文化遺産の価値を保護できるか、カルデラ内は立ち入りできないので現地の状況をどう伝えるか、が課題となっています。

 

 以上が基調講演と報告でした。

 

 この後、日本ICOMOS国内委員会の西村幸夫氏がコーディネーターとなり、第8代ユネスコ事務局長の松浦晃一郎氏、下田一太氏、清華大学(中国)の呂 舟氏、慶星大学(韓国)の姜 東辰氏の4氏によるパネルディスカッションが行われました。

 

 世界的に見た場合の立山砂防の世界遺産としての意味、土木遺産が世界遺産となり得るか、構造物だけでなく人が災害とどう闘ったかを示すこと、生きている遺産の価値をどう伝えるか、砂防の説明・案内の中心となる担い手の人たちを作り出すこと、など様々な話を聞くことができて、なかなか面白いシンポジウムでした。

 


本の紹介:九月、東京の路上で2023/10/29 16:15


九月、東京の路上で

 加藤直樹、九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響。ころから、20143月初版、20233月 9刷。

 

 100年前の関東大震災の時に東京を中心とした路上で、民間人、警察、軍によって行われた朝鮮人、中国人そして日本人の虐殺の記録です。

 

 朝鮮人あまた殺され

 その血百里の間に連なれり

 われ怒りて視る 何の惨虐ぞ

         萩原朔太郎

 

 この本の中表紙に記された詩です。この詩は大震災の折、群馬県で起こった藤岡事件への怒りから震災の翌年に発表したものです。東京の路上で起きた惨虐は、このようなものであったことが、この本を読むと分かります。

 

 今の時代、そんなことは起きないでしょうと安心するわけにはいきません。

 20058月にニューオリンズをハリケーン・カトリーナが襲った際に、自警団が黒人に対して暴力を振るいました。1995年の阪神淡路大震災の時に、バットを持った自警団に囲まれた記者がいます。

 そして、関東大震災の時に各地で起きた朝鮮人たちの虐殺を認めようとしない人びとが、自治体の長にも政府の中にもいます。

 

 未曾有の大震災におののいた

 「普通の日本人」と行政は、

 デマに煽られ朝鮮人虐殺へと走った。

 100年前のヘイトスピーチは

 残響となって、いまも

 この街を覆っている。

   (本書の帯の文章)