右代啓視氏講演「北方四島の考古学」2012/07/09 23:34

 北海道開拓記念館の右代氏の講演がありました.

講演する右代啓視氏

 北方四島は,カムチャッカの諸地域と北海道をつなぐ東のルートとして北海道の先史文化やアイヌ文化の解明に重要な地域です.しかし,1951(昭和26)年のサンフランシスコ平和条約で日本は千島列島を放棄したために,北方四島を含む千島列島の考古学的研究は中断されました.
 それでも,2006(平成18)年から国後島へのビザなし渡航の専門家枠で2日間程度の調査を行ってきました.

 3-4世紀の続縄文文化,7-8世紀のオホーツク文化,11-12世紀の擦文文化などの考古資料が古釜布郷土博物館に展示されています.古釜布の近くにはチャシ跡がありアイヌ地と言われている場所もあります.これについては,戦前1933(昭和8)年に名取武光氏が報告をしています.
 古釜布は太平洋に面していますが,その反対側のニキシロにも続縄文からアイヌ期の遺跡があります.

 一般に,人類はシベリアからベーリング海を渡り北アメリカに移動したとされています.あるいは千島列島、カムチャッカ,アリューシャン列島沿いに移動したルートも考えられています.しかし,後者については考古学的資料がほとんどないのが現状です.この課題を研究するには,千島列島の考古学的研究がどうしても必要です.

 右代氏は前段で千島列島の帰属問題の歴史を図入りで分かりやすく話してくれました.

 この時の右代氏の話とは違いますが,以下は私の見解です.

 意外と日本の人たちは知らないのですが,サンフランシスコ平和条約第二条c項では千島列島についてこう書かれています.

 「第二条【領土権の放棄】(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

 で,ここで言う「千島列島」に択捉島以南の北方四島(歯舞・色丹と南千島)は含まれていない,と言うのが日本政府の主張です.その理由は,1855(安政元)年の「日魯通交条約」で国後島と択捉島の南千島を日本領とすると決まったからだと思います.
 しかし,これは無理な話で,国際的には全く認められないでしょう.と言うのは,その後,1875(明治8)年に「樺太・千島交換条約」で樺太はロシア領,千島列島は日本領となったからです.
 ただし,歯舞諸島,色丹島は,もともと北海道の一部であって千島列島には含まれません.ですから,これらについてはサンフランシスコ平和条約に関係なくすぐに返して貰うべきなのです.しかし,二島が返還されたら北方領土問題は終わりとはならないのです.
 サンフランシスコ平和条約を批准した1951(昭和26)年の国会で,外務省の条約局長は一貫して「千島列島の範囲については,北千島と南千島の両者を含む」と答弁しているのです.ですから,日本の敗戦のどさくさに当時のソ連が武力でかすめ取った千島列島全部を返して貰わなければ,北方領土問題は解決にはならないのです.

 地質的には歯舞・色丹は外弧に属していて火山がありません.根室半島の延長の地質です.これに対して,国後・択捉は知床半島の続きで火山列島です.本当に天気の良い日には国後の爺爺岳(ちゃちゃだけ)が見えることがあります.
 この6月28日に北海道の太平洋沿岸の津波浸水予測図が発表され,浜中町で34.6mの津波が予想されています.この地震の震源断層の東側が何処まで延びるのかについては,国後,択捉での津波堆積物調査が重要になってきます.


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