土木学会100周年2014/07/09 21:55

 土木学会は,1914(大正3)年11月24日に創立されました.今年で丸100年になります.


 土木学会の前身は,1879(明治12)年11月18日に創立された工学会です.この工学会は,旧工部大学校7学科の第1期卒業生23名によって,相互親睦・知識の交換を目的として創立されました.
 7学科というのは,土木,機械,造家(建築),電信,化学,冶金,鉱山,造船です.当時は工学を専門とする人が少なかったことから,7学科全体の学会で十分でした.
 しかし,1885(明治18)年に鉱山関係者が日本鉱業会を設立し,以後,造家学会(建築学会),電気学会,造船協会,機械学会,工業化学会が,1898(明治31)年までに次々と設立されました.

 これに対して,土木学会の設立は遅れました.その理由の一つは,土木関係分野の一つであった鉄道協会が,1898(明治31)年に設立されたことであるとされています.この当時,東北本線や山陽本線などの建設が盛んに行われていました.結局,工学会創立から34年後に土木学会は設立されました.

 以上は,創立20周年記念「土木学会略史」(1934年10月)などを参考にしています.これらの本では,工学会創立は明治13(1880)年としています.「土木学会80年史」(1994年11月)では,1889(明治12)年となっています.
 なお,工学会は現在,学協会単位の会員で構成する日本工学会として活動を続けています.土木学会や地盤工学会が会員となっています.
(http://www.jfes.or.jp/about/history.html)

 下の二つの文章は,設立総会の発起人なって欲しいという依頼状と土木学会創立趣意書です。漢字仮名まじり文を読みやすいように直して,適当に句読点を付けています。

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“土木学会設立発起人依頼” の文章

拝啓,ますますご清栄奉り大いに喜ばしく候。我ら,今般同志相謀り別紙趣意のごとく新たに土木学会を設立いたしたく候につき,その発起人たることをご承諾相成り候よう致したく存じ候.もっとも,現に工学会の存在候,今日更に土木学会を設くるは如何とのご説もこれあるべくと存じ候らえども,ご承知の如く同会はその目的とするところ工学全般を網羅するものに候らえば,一学科専攻の機関としては不適当なものに有之,且つ工学会に於いても目下その組織を変更して通俗的なものたらしめんとするの議あり方々,以て土木学会の新設は刻下適切の時期にして,寧ろその設立遅かりしを感ずる次第にこれある候間,この際奮ってご賛同下されたく,この段貴意を得候.
追って,本会創立総会に於いて決定すべき本会定款及び規則は先般来討議を重ね別紙記載の通り立案候につき,右に対し御意見有之候はば総会前に於いて取り纏めたく候間,本月二十日迄に御申し越し下されたく候.

大正三年六月一日

有志者総代
石黒五十二 沖野忠雄 大屋権平
野村龍太平 古市公威 平井晴二郎
仙石 貢

(創立二十周年記念 土木学会略史,昭和九年十月.四−五 による)

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土木学会創立趣意書

西洋諸国工業界を観るに,各専門家は競うてその学の研鑽(けんさん)に従事し,攷攷(こうこう)として倦(う)まず。各自研究実験の成績を発表討議するの機関としては,則ち学会を興し,刊行物を頒布し,恒(つね)にその学の進歩発展を怠らざるを期す。斯学(しがく)現時の隆盛を致せる,蓋(けだ)し偶然にあらざるなり。而(しこう)して,我国に於いても現に機械,電気,建築等の如き,既に各専門の学会を設立し研鑽を怠らずは,我工業界のために賀すべきなり。然るに吾人専攻の土木学科に至りては,学会其人に乏しからず,事業亦尠少(また せんしょう)ならざるに拘わらず,今日に至るまで未だ土木学会の設立を見るを得ざりしは誠に遺憾の極みにして,亦工学会の一大欠点ならずとせず。仍て(よって)吾人茲(ここ)に土木学会を設立し,会誌を刊行し研究討議の途を開らき,汎く(ひろく)意見を交換し,以て土木工学の進歩及び事業の発達に資せん事を期す。

(創立二十周年記念 土木学会略史,昭和九年十月.五−六 による)

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 1914(大正3)年9月15日に土木学会発起人総会が京橋の築地精養軒で開かれました。会長に古市公威(ふるいち・こうい:治水・港湾・鉄道),副会長に沖野忠雄(河川・治水)と野村龍太郎(鉄道)が選ばれました。その他に,廣井 勇(港湾)など8人が常議員に選ばれました。設立とほぼ同時に社団法人が許可されました。設立当初の会員は400名ほどでした。
 現在は,約38,000人の個人会員を擁していて,そのうち約1,600人が女性会員です。

 大正年間の最大の事件は,1923年(大正12)9月1日に発生した関東大震災でしょう。帝都復興院の技監に土木学会創立に関わった直木倫太郎(港湾,都市計画,河川改修など)が任命されました。

 昭和初期には,東京の隅田川橋梁群が竣工し,清水・丹那トンネルが開通しました。
 昭和30年代以降は,佐久間ダム(昭和31年)を始めとする大規模なダムの建設,東海道新幹線の開通(昭和39年)などが続きました。

 1995(平成7)年には阪神淡路大震災が発生し,2011年(平成23)年には東日本大震災に見舞われ,原子力発電所から大量の放射性物質が放出されました。

 土木事業に伴う地質調査は,昭和30年代以降に大きく発展しました。さらに,石炭や金属資源の開発で培ってきた知識や技術を土木事業の地質調査に活用し,経済的で信頼性の高い構造物を造ることに貢献してきたと言えます。
 そして,それまでの資源採掘の負の遺産としての休廃止鉱山のズリや坑内水の処理,有害物質の除去などの環境改善が,地質調査の新たな分野として登場します。

 現在,東北日本大震災の復興や国土強靱化などの課題がありますが,地質調査(応用地質学)の大きな課題の一つは,放射性廃棄物をどのように処分するかだと思います。

 これについては,これまでの蓄積があり,直接処分・地層処分のほかに海溝処分,海洋底下処分,氷床処分,宇宙処分,消滅処分などが検討されてきました。その結果,直接処分または地層処分が適切であるというのが,世界的な合意となっているようです。

 なお,この分野で地層処分と言っているのは,一度使った核燃料からウランやプルトニウムを取り出したあとの高レベル放射性廃棄物をガラスと一緒に固めて,地下300mより深いところに埋める処分のことです。
 これに対して,直接処分は一度使った核燃料を再処理せず,そのまま処分することを言います。

 これもまた,負の遺産の処理ですが,まさに地質学,応用地質学の問題であり,精度の高い地質調査が求められます。
 周辺の地質環境の検討から始めて,処分場そのものの地質的安定性の検討,長期的な地質環境変動の予測など,これまでの知識を総動員し,かつ新たな情報を取得して,どのように放射性廃棄物を処理するのかの検討が早急に必要です。
 すでに,除染作業で出た廃棄物をどこに貯蔵するのかということが緊急の課題となっています。

 このような事業を進めるに当たっては,2012年9月に出された日本学術会議の「回答 高レベル放射性廃棄物の処分について」に準拠することが大事だと思います。
 この学術会議の回答の検討委員会には,地震学分野から京都大学名誉教授の入倉孝次郎氏,応用地質学分野では京都大学防災研究所の千木良雅弘氏,土木工学分野では早稲田大学理工学術院の濱田政則氏が加わっています。

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 「安全性と危険性に関する自然科学的、工的な再検討にあたっては、自律性のある科学者集団(認識共同体)による、専門的で独立性を備え、疑問や批判の提出に対して開かれた討論の場を確保する必要がある。」(同回答,iii)
 
 「暫定保管と総量管理についての国民レベルでの合意を得るためには、様々なステークホルダーが参加する討論の場を多段階に設置すること、公正な立場にある第三者が討論過程をコーディネートすること、最新の科学的知見が共有認識を実現する基盤となるように討論過程を工夫すること、合意形成の程度を段階的に高めていくこと、が必要である。」(同回答,iv)

 「高レベル放射性廃棄物の処分問題は、千年・万年の時間軸で考えなければならない問 題である。民主的な手続きの基本は、十分な話し合いを通して、合意形成を目指すもの であるが、とりわけ高レベル放射性廃棄物の処分問題は、問題の性質からみて、時間を かけた粘り強い取組みを実現していく覚悟が必要である。」(同上)
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 地球規模でみれば,日本は北海道から先島諸島まで,太平洋側は沈み込み帯の変動帯です。日本海側もユーラシアプレートと北米プレートの境界となっています。地震が多いだけでなく,内陸には活断層が縦横に分布しています。沈み込み帯の宿命として,東日本では火山帯が列島の背骨をつくっています。
 このような地質環境で,放射性廃棄物を超長期にわたって安全に保管することを可能にするには,それに見合った体制と予算が必要です。

 そして何よりも,これ以上,放射性廃棄物を作り出さないことです。政治が決めれば,今すぐに可能なことです。


千木良雅弘著「深層崩壊」の紹介2014/07/10 10:49



深層崩壊.千木良雅弘,2013年10月,近未来社.


 千木良雅弘氏の崩壊に関する4冊目の本です。前著,「崩壊の場所」では,長期的な地形形成過程の中で,どのような場所で大規模崩壊(深層崩壊を含む)が発生するのかを明らかにしていました。いわば,その続編とも言うべき内容です。

 深層崩壊が発生する場所を,ある程度特定できるとしています。扱われているのは2009年の台湾小村林のでの深層崩壊,2011年紀伊山地の深層崩壊,2008年中国汶川地震での深層崩壊,2011年東日本大震災による降下火砕物の崩壊などです。

 そして,第7章で深層崩壊発生場所の予測をどのようにして行うかを述べています。地質によって異なりますが,ポイントの一つは重力変形斜面を見分けることです。
 これは,非常に実際的な話で,現地踏査の時に,どこに着目すれば良いかを教えてくれます。

 テクトニック断層(地質断層)とノンテクトニック断層(地すべりのすべり面など)が,どのように異なるかをコア写真などを示して説明しているのも,実際の地質調査で参考になります。

 調査手法として,航空レーザー計測による地形図,高品質コアボーリング,ボアホールカメラが大いに役立つと述べています。
 航空レーザー計測による地形図は,重力変形斜面に特徴的な微地形を識別するのに非常に役に立ちます。
 高品質コアボーリングは,旧来のコアでは土砂と判断するかコア判定ができなかった地盤でも,観察に耐えるコアを採取することができます。

 深層崩壊による災害は色々とあります。
  1)崩壊土砂そのものによる被害
  2)崩壊土砂が沢や川に突っ込むことによって発生する土石流
  3)崩壊土砂による天然ダムの形成(ダム上流の浸水被害)
  4)天然ダムの崩壊による洪水
  5)天然ダム上流での崩壊による津波

 特に,土石流や天然ダム崩壊による洪水は,下流の都市部や住宅地に影響を及ぼします。深層崩壊の場所を精度良く抽出することが重要になります。

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 以下,実務的な補足です。深層崩壊の特徴は,「表土層の下の地盤も崩壊する,高速移動する,崩壊土塊がバラバラになる」ということです。

 2010(平成22)年時点で,深層崩壊と認定されたのは全国で188個所です。
 土木研究所で「過去の深層崩壊事例について(〜平成22年度)」(2012年1月)および
「深層崩壊発生の恐れのある渓流抽出マニュアル(案)」(2008年11月:以下,マニュアル(案)と呼ぶ)を作成しています。
 また,国交省で深層崩壊マップを公開しています。(http://www.mlit.go.jp/mizukokudo/sabo/deep_landslide.html 参照)

 上記マニュアル(案)では,「改訂 砂防用語集」を採用して,深層崩壊を次のように決めています。

 「本マニュアルで対象とする深層崩壊は、「山崩れ・崖崩れなどの斜面崩壊のうちすべり面が表層崩壊よりも深部で発生し、表土層だけでなく深層の地盤までもが崩壊土塊となる比較的規模の大きな崩壊現象」(「改訂 砂防用語集」((社)砂防学会 編,2004))とする。
 なお、表層崩壊の崩壊深は表層土と基盤層の境界部までの0.5〜2.0m程度であると言われている。
 深層崩壊の特徴は
  1) 崩壊土塊(土砂)は、高速で移動する.
  2) 崩壊土塊(土砂)の大部分は、崩壊範囲の外へ移動する場合が多い.
  3) 斜面を構成する土塊は、崩壊と同時にバラバラになって移動するか、あるいは原形を     
   留めてすべり始めた後にバラバラになる場合が多い.
 という点である」(マニュアル(案),1p)

 崩壊面積については,1ha程度以上のものとしています。
(「深層崩壊発生の恐れのある渓流抽出マニュアル(案)」に関するよくある質問と答え.土木研究所,2009年8月 参照)
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沈み込み帯での流体とメルトの挙動2014/07/17 22:06

 アメリカ,ワシントン州のほぼ中を東西に横切る断面での電磁探査結果と地震記録を組み合わせて,沈み込み帯での液体メルト相の流れの画像が得られました。Nature,Vol.511,338-340 (2014年7月)に発表されました。  ワシントン州では,ファンデフカプレートが北米プレートの下に沈み込んでいて,レーニア山(標高4,392m)やセント・ヘレンズ山(同2,550m)などの火山が海岸から150km〜170kmのところに並んでいます。  今回得られた画像は見事なもので,沈み込む海洋プレートスラブの上面からレーニア山付近へ,メルト相が上昇している様子が描かれています。  技術の進歩は著しいものがあります。  私は,本文を見ていませんが,興味のある方は是非見て下さい。

無意根山2014/07/19 21:06

 無意根山は,札幌市で余市岳に次いで2番目に高い山です。ほぼ南北に延びる尾根を持っていて魅力的な山容をしています。
 無意根山へは昔夏に一度,冬に二度来ています。夏は,大学院の夏の合宿でしたので,山頂には行かず無意根尻小屋で勉強会でした。
 冬の一度は天候が悪く頂上へは行けませんでした。一度だけ冬の山頂に行きました。スキーが下手なので,あまり楽しめませんでしたが,実に気持ちの良い斜面です。


写真1 冬の無意根山(1月末)
 豊平峡温泉から見た無意根山です。なだらかな尾根とその前面に広がる広い雪原が特徴です。


写真2 初夏の無意根山(6月中旬)
 中山峠から見た無意根山です。尾根の下の植生の薄い露岩部分は巨大地すべりの滑落崖です。比高は約250mあります。地すべりの規模は,奥行きが約3.5km,幅約2kmです。尾根が右に高度を下げている付近は,大蛇ヶ原を含む北隣の巨大地すべりです。この地すべりは,宝来林道のある小川を土石流として流れ下ったと考えられます。

 登山道は国道230号の薄別橋のやや峠よりの宝来林道から入る薄別コースと豊羽鉱山から長尾山の脇を通る元山コースがあります。今回登ったのは薄別コースです。


写真3 林道入口
 ここには数台の車を駐めることができます。この奥に本物のゲートがあり,その手前が駐車場となっています。

 ここから宝来小屋がある登山口までは約5kmの林道歩きです。地形図を見ると,幾つかカーブが連続している個所があります。これは,この沢を流れ下った土石流の末端の急斜面のようです。砂利道で歩きやすいのですが,眺めは全くなく単調な林道歩きが続きます。


写真4 林道の様子
 ほとんどが日陰になっていて楽です。しかし,延々と続きます。2個所ほど円弧すべりを起こしていて歩くのがやっとという状態の所があります。礫まじり粘土を盛土した所です。

 宝来小屋に近づくと道路の切り割りに粘土質の土砂が出てきます。多分,これが土石流堆積物と思います。粘土の中に変質したものや比較的新鮮な安山岩の礫が入っています。宝来小屋付近までは,ある程度粘性のあるフローだったものが,ここから土石流になったと考えられます。


写真5 宝来小屋手前の土石流堆積物
 粘土の基質の中に変質した安山岩などの礫が混じっています。いくつかの段波となって林道入口付近まで到達したと考えられます。粘土は膨潤性でないため,このような切土でも崩壊を起こさないのだと思います。


写真6 宝来小屋
 看板の所から登山道に入っていきます。小屋の中に登山者名簿があります。

 ここからは,地すべり土塊の中の道です。やはり林の中で眺めは得られませんが,所々で振り替えると札幌岳が見えます。
 やがて大蛇ヶ原に着きます。地すべり土塊の,ほぼ真ん中に形成された湿地です。冬は一面の雪原となっていて,夏とは印象が全く違います。


写真7 大蛇ヶ原
 湿地と言うより草原に近い状態で,周りはエゾマツに囲まれています。湿地の中を歩けるように木道が造られています。

 地すべりの移動土塊の小山を登ったり降りたりしながら,一段高い所にある無意根尻小屋に着きます。この小屋はカギは掛かっていなくて,冷たくておいしい水が台所から勢いよく流れ出ています。是非,ここで水を補給することをお薦めします。

 無意根尻小屋を過ぎて,すぐに階段ばしごがあります。最初のはしごは,まだ地すべり土塊の中の分離丘です。しばらく小さな上り下りをくりかえして,二番目のはしごになります。この崖が地すべりの滑落崖です。
 この急崖を登るとなだらかな尾根に出ます。一面笹原でカバノキが所々に生えています。


写真8 巨大地すべりの滑落崖
 元山分岐手前から見た山頂の尾根と東斜面です。ここからでも高さは約200mあります。左端に見えるのは板状節理の発達した安山岩溶岩の崖です。

 最後は尾根の下を斜めに登っていきます。尾根に付くとハイマツの林の中を通って頂上へ到着です。地図では頂上手前の祠のあるところが一番高いのですが,露岩しているのは頂上です。


写真9 頂上の安山岩露頭
 青灰色の輝石安山岩でサイコロ状の節理が見られます。右手の尾根が非対称であるのが印象的で,左側の緩やかな斜面は,溶岩の流れた地形を残していると考えられます。中央やや左のお椀を伏せたような山は余市岳で,沢に残っている雪が白く見えます。


写真10 山頂の安山岩
 やや白濁した斜長石と黒色の輝石が目立ちます。全体に青灰色をしています。


写真11 薄別川地すべりと国道230号
 中央の白く見えるのが2000(平成12)年5月15日に発生した薄別川地すべりです。その左に中山峠に続く国道230号の渓明大橋などが見えます。


写真12 札幌西部の山々
 左から札幌岳,狭薄山,頭に雲を頂く空沼岳です。秋か冬の天気の良い日に登れば素晴らしい景色を楽しめます。この日は,羊蹄山は霞の向こうで,頂上は雲に隠れていました。


写真13 中山峠から見た無意根山
 一番右が無意根山でその左が中岳です。やや左手のなだらかな山は喜茂別岳でしょう。

 帰りは,無意根尻小屋で十分に水を飲んでから帰りましたが,やはり林道歩きが辛かったです。林道入口から登り始めて戻るまでに会った登山者は一人だけでした。
 登りは休みを入れて4時間10分,頂上で30分ほど休み昼飯を食べました。帰りは3時間45分かかりました。最近,帰りは転ばないように用心するので時間がかかるようになりました。



黄金山2014/07/21 16:35

 石狩市浜益のにある富士山のような形をした山である。黄金山という山は,全国各地にある。多くが金の産地に関係しているようで,この山も金が採れたことによるという説がある。


写真1 国道231号浜益橋から見た黄金山
 葛飾北斎が描く富士山にそっくりの急斜面の山腹を持つ。

 地図で見ると山全体の形は長方形に近く,北西から南東に延びているように見える。ナノで,見る方向によってその形が違ってくる。
 国道451号を滝川の方から下って来て最初に目に飛び込んだときの姿は,「何だ!あの山は!」という感じである。


写真2 国道451号を滝川から浜益に向かって最初に見える黄金山
 この姿が,多分,一番迫力があるように思う。植生が付かない南西斜面とその下に柱状節理のようなものが見える。


写真3 国道451号実田(みた)橋付近からの黄金山
 この方向からは富士山にそっくりである。

 この山は,火成岩の岩脈で出来ていて,5万分の1地質図幅では「輝石安山岩」となっているのに対し,地質図Naviでは「斑れい岩質の深成岩」となっている。地質図Naviによれば,同じような岩体は,黄金山のすぐ西の丸山,南の琵砂別川上流にもあり,北は暑寒別川下流左岸から転々と南北に並んで分布している。

 なお,石狩市の「市民生活便利帖 動画版」に黄金山登山の様子が紹介されている。なかなか優れた作品である。