瀬川拓郎著「アイヌの沈黙交易−奇習をめぐる北東アジアと日本−」 ― 2013/06/19 14:30

新典社新書61,2013年5月
話は道東アイヌと千島アイヌの間で1700年代にも行われていた沈黙交易から始まります。お互いに対面せずに,道東アイヌが浜辺に並べた米・塩・酒・たばこ・綿布などと千島アイヌのラッコの皮などを交換する交易です。この様子は,新井白石の「蝦夷志」(1720年)に書かれているそうです。
興味をひかれるのは,日本書紀に出てくる沈黙交易です。斉明天皇六年(西暦660年)三月に,阿倍比羅夫が粛慎国(みしはせ・の・くに)を討伐した時に,最初に沈黙交易を試みたが成立せず,結局,粛慎の拠点であった弊賂弁島(へろべ・の・しま)で粛慎を打ち破ったという内容です。破れた粛慎は自分らの妻子を殺したと日本書紀には書かれているので弊賂弁島には家族単位で粛慎が住んでいたことが分かります。
瀬川氏の解釈は,粛慎というのはオホーツク人で弊賂弁島は奥尻島であるというものです。奥尻島の青苗砂丘遺跡が粛慎の拠点であったとしています。つまり,考古学的証拠があると言うことです。日本書紀には欽明天皇5年(西暦544年)12月条にも粛慎の記述があり,この頃,オホーツク人はアイヌとの接触を避けるようにして日本海を南下してきたと,瀬川氏は考えています。オホーツク人は漁労民であり,海から離れて住むことができなかったと推測しています。オホーツク文化が樺太から北海道オホーツク沿岸,南千島に広がり,北海道の内陸に及ばなかったのも彼らが漁労民であったことに依るものでしょう。
なぜ沈黙交易という手の込んだ物々交換を千島アイヌが採用していたかですが,穢れを忌み嫌うという風習に起因しているというのが瀬川氏の解釈です。直接的には疱瘡などの伝染病を防ぐと言うことです。
明治になって樺太と千島が交換された時に,樺太アイヌを宗谷に移住させ,さらに対雁へ移住させました。この時,コレラ,天然痘の流行で300人以上のアイヌが死亡したことでも分かるように,アイヌなどの先住民族は伝染病にほとんど抵抗力を持っていなかったのです。
そのほか,アイヌの呪術と陰陽道との関わりなど,日本の古代から近世にかけての歴史を別の角度から明らかにしていて,興味深い内容となっています。
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