榎本武揚と地質学 ― 2008/12/25 18:10
榎本武揚と地質学
【シベリア日記】
榎本武揚が没して今年でちょうど100年である.1908(明治四十一)年10月27日に逝去し海軍葬が営まれた.1836(天保七)年8月25日江戸下谷御徒町(現在の浅草柳原町の辺り)で旗本の次男として生まれた.
箱館戦争で「蝦夷共和国」の総裁として五稜郭にこもったが,1869(明治二)年敗れて幽閉されたことはよく知られている.しかし,黒田清隆の強い勧めで1872(明治五)年に北海道開拓史として明治政府に入り,1874(明治七)年には初代駐露公使としてサンクトペテルブルグで樺太・千島交換条約に調印した.
そして,1878(明治十一)年7月にサンクトペテルブルグを出発し,ウラジオストックまでのシベリア横断旅行を敢行する.この時の日記である「シベリア日記」が,2008年に講談社学術文庫として刊行され手軽に読めるようになった.この日記を読むと榎本がロシアの実情を知ろうという明確な目的を持ってシベリア横断旅行を行ったことが分かる.この旅行に対して,ロシア政府は様々な援助を行い,旅行を実りあるものとする努力をしていることが分かる.
まず驚くのは,過酷な行程にもかかわらず榎本が毎日きちんと日記を付けていることである.はっきりとした目的意識がなければ,このようなことは出来ないであろう.
地質に関わる言葉としては次のようなものがある.
(引用は講談社学術文庫「シベリア日記」より.引用中( )内は学術文庫の文章のまま.<>は石井の推測.引用末尾の(p○○)は学術文庫のページ数).
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ペルム県管轄中について、ソリコム郡ルーニェフスキーには石炭山多く、その量は毎年四千万ミルリウン(百万)ボードを採るも六十年間は尽きざる筭<算>なり。」(八月三日ペルム滞在中,p40)
「砲はクルップ(ドイツの工場)の製法に全く同じ。ただ鋳る鋼の坪はクルップの坪よりも大にして、かつグラフィート(石墨<graphite>)数種へ極上の白粘土を和して作り焼きたるものなり。」(同上,製砲所見学,p41)
「この溶鋼炉の煉火石は、クワルツ(石英<quartz>)の粉へ二ペルセント石灰を加えたるものなりと。」(同上,p41)
「前文ゲネラル某よりペルムのゼオロヂカルマップ(地質図)と写真壱枚を得たり。」(同上,八月三日の追記,p43)
「ペルムよりエカテリンブルグまでは土質皆ケレイ(粘土<clay>)にして灰色なり。フルハルデケレイ(凝固粘土<verhälten Klei【独】> )の層粘土中にあるを見かけたり、いわゆるペルム・フォーマシー(ペルム系<Permian Formation>)にして到る処皆然り。」(八月四日ペルムからエカテリンブルグへ,p43)
「詰め合いの小吏を前導せしめ、すでに閉ぢたる宝石店を<小文字>八時前にすでに戸を閉づ<ここまで>開かしめ、トッパーズ<topaz>〔いはゆるウラルセ・ブリヤント(ウラル宝石)〕等の石を買ふ。」(八月五日,エカテリングブルグにて,p46)
「掘り主は予がために二十プードの土を掘らしめ、これを洗い、水銀にてアマルガメート(混合<amalgamate>)し、しかしてこれを鉄皿にて水銀を蒸発せしめ〔火に焼きて〕、しかしてこれを目方に掛けて見たるに、砂金二十二ドリありたり。」(八月六日,エカテリンブルグの沙金場にて,p50)
「道路は昨の如く北海道の新道と大きさまでも全く相似たり。処処にフルハルデケレイ<verhälten Klei【独】>の焼きたる小塊を積みて路側にあり。道普請のためなり。」(八月七日,エカテリンブルグ出発の翌日,p51)
「沙金を溶かすには、沙金一プードに付き、ボラッキス(硼砂<borax>)一フント、硝石半フントを加へるのみ。
クルシブル(坩堝<crucible>)は西伯里より出づる極上のグラフヒート<graphite>へ六パルセントのカオリン(白陶土<kaolin>)を交へ、外部にクワルツ<quartz>の粉を少しく塗りて焼きたるものなり。六次用ひ得べし。」(八月二十九日の続き,イルクーツクにて,p97)
「東西シベリヤ共に皆沙金にして、クワルツ金あらず。クワルツ金はウラルのみ。」(同上,p98)
「シベリヤ火成地のこと。
フォン・フンボルト氏はイルクーツクを以て火製の地と云へり。千八百六十年イルクーツクに地震ありて寺鐘自ら鳴れり。かつ毎年二、三次位は小地震あり。多分は冬なり。」(八月二十九日の続き 覚書,p101)
「山はなはだ嶮にして往時はフヒルカニーセ(火山性<volcanic>)たること知るべし。」(八月三十日,イルクーツクからバイカル湖の船場リスチウウヰチナヤの間,p104)
「六時半、ムヒンスカヤと云ふ村駅にて馬を代ふ。この処にて馬がしきりに泥を喰ふを見る。大岡生怪しみてこれを予に告ぐ。予これを附き添ひ役人に問ふに、塩気を含める故なりと答へりと。予ここにおいてその土を水に和し、これを試むるに果たして少しく塩気を味わへり。またラーピス(硝酸銀)水を以てこれを試みるに果たして白色の沈澱を致せり。ラーピスを溶解せし水は、この所の河水なれども沈澱物なし。これを以て知るべし、この地一般河水にも塩気あるにはあらざるを。
この沢土にかく塩気ある以上は草にもまた然り。故に牛馬のためにもまた宜し。」(八月三十一日,バイカル湖の東岸バイカルヤからクリュチェスカヤの間,p108)
「初めの沙金場の少々手前に炭酸水涌き出づる処あり。厳然囲みをなし置けり。魯俗呼んで酸水と名づく。味はなはだ佳、鉄気を多く含めり。」(九月九日,ネルチンスクの東プーチンスクにて,p132)
「しかして帰路の方なる沙金場を一見す。・・・トルフ〔泥炭<Torf【独】:peat>は一サーゼンに過ぐることなく、含金土は我が五尺ばかりにして、磐は同じガラニート〔花崗岩<granite>)なり。」(九月十日,ネルチンスク付近にて,p133)
「往々一丈ばかりの平地をなせり。ただし一方は常に岩岸をなす。しかしてその岩はサンドストーン(砂岩<sandstone>)または堅固なるコングロメラート(礫岩<conglomerate>)より成れる。この団結石中にはガラニート、クワルツ、セレニート(透石膏<selenite>)等の混和せしもの多し。」(九月十六日,アムール川のアルバヂン付近,p152)
「夜九時半頃、白山の岸を過ぐ。この岸には石灰の層ありて終歳〔一年中〕燃え烟出づと云ふ。」(同上,p152-153)
「ヒンガン<小興安嶺山脈>は支那のゴビ沙漠の尽くるより起こり、満州と蒙古を分界する山なる由。・・・石質はサンドストーン(砂岩)およびケレイスレート(粘板岩<clay slate>)に似たり。ガラニート(花崗岩)、バザルト(玄武岩<basalt>)または火山石たるラハ(熔岩<lava>)等は見えず。然れども船より望遠鏡にて見るのみなるを以て確言しがたし。ただしプリュトニック(火成<plutonic>)またはオルガニック(有機<organic>)の地質にあらざることは明らかなり。」(九月二十日,アムール川のヒンガン峡,p182)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これらのほかに地形を記述した記事も多く,特に,舟行の場合は澪筋(みおすじ:船の通れる水路となっている深み)の長さなどを細かく記載している.
地元の人たちから聞いた話については,信用できない場合はその旨を述べている.
この紀行文を見るだけでも榎本武揚が地質学,鉱物学についてかなりに知識を持っていたことが分かる.
この知識をどこで習得したのかは不明であるが,28歳の1863(文久三)年から1866(慶応二)年までのオランダ留学と考えるのが妥当であろう.
なお,この本には榎本がオランダに留学した時の「渡蘭日記」,「両日記の解説−榎本武揚小伝」(廣瀬彦太)が載せられていて榎本の理解を助けるものとなっている.
【近代日本の万能人 榎本武揚】
榎本武揚没後100年を記念して「近代日本の万能人 榎本武揚 1936-1908」(藤原書店)が刊行された.この中で吉岡学氏が「日本地質学会の先達【学理と技芸の狭間で】」と題して榎本と地質学の関わりを述べている. それによると,
「伝習所の授業に地質学を見いだすことは出来ないが、カッテンデーケの受け持ちで週二時間地文学(自然地理学)の授業が行われており、これが西洋地質学との出会いであった.」(吉岡,2008,p217)
その証拠として吉岡氏は,「渡蘭日記」の十二月三十日の項にある
「過午(午後)三時三拾分錨を投ず。深さ十尋、底はモッドル(泥)。」(渡蘭日記,p236.講談社学術文庫)
つまり,海底の地質が何であるかを知ることは航海術には当然必要な知識であったとしている.モッドルはオランダ語で泥(modder:mud【英】)のことである,
また,「渡蘭日記」には次のような記述も見られる.
「また,同島<バタービヤ>にアールド・ヲーリー〔Aardolie 石油〕出づると云ふ。これは本邦越後のいはゆるクソーヅの油と察するに同種なるべし。この油にカルキ〔Kalk=Zime 石灰〕を和して前のいはゆるカポツク〔Kapok=Capok 木綿の樹〕のわたを和して船の吃水処に塗るに、自然石の如く堅くなりて極めてよしと云々。」(渡蘭日記,p254)
この話は,航海中にオランダ船の船長との会話で出てきたものである.
吉岡氏によれば,榎本はイギリスの石炭鉱山を見学していて,キングズカレッジの鉱物学,地質学の教授であったテーナート(James Tennant:1808-1881)から金属鉱石を多く含む鉱物標本を購入している.(吉岡,2008,113-115および215-233)
しかし,オランダ留学時代については榎本自身の記録が無く,地質学〔自然地理学〕に関して何を学んだかは現時点では,はっきりしない.
【参考文献】
榎本隆充,2003,榎本武揚の流星刀製作と「流星刀記事」/シベリア横断旅行と『シベリア
日記』.地学雑誌,112(3),453-457.
榎本隆充・高成田亨編,2008,近代日本の万能人 榎本武揚 1836-1908.藤原書店.
*吉岡,2008 はこの本の中の文章である.
榎本武揚 シベリア日記.講談社編,講談社学術文庫.
諏訪兼位,2008,榎本武揚−地学者でもあった幕末・明治の政治家−.地球科学,62巻,
(6),415-420.
地徳力,北海道の地質学の歴史 蝦夷地質学 地質学の未来とを問う.↓
<http://agch.cside.ne.jp/yezogeology/index.html>
吉岡 学,2008,オランダ留学時代−軍事科学と殖産興業−.(榎本ほか編,2008)
吉岡 学,2008,蘭学から洋学へ−イギリス旅行が示す学問基盤の変容−.(同上)
吉岡 学,2008,日本地質学界の先達.【学理と技芸の狭間で】.(同上)
吉岡 学・本間久英,2001,榎本武揚の日本地質学史上に占める位置−その一 科学者とし
ての出発−.東京学芸大学紀要4部門,53,75-134.
【END】
【シベリア日記】
榎本武揚が没して今年でちょうど100年である.1908(明治四十一)年10月27日に逝去し海軍葬が営まれた.1836(天保七)年8月25日江戸下谷御徒町(現在の浅草柳原町の辺り)で旗本の次男として生まれた.
箱館戦争で「蝦夷共和国」の総裁として五稜郭にこもったが,1869(明治二)年敗れて幽閉されたことはよく知られている.しかし,黒田清隆の強い勧めで1872(明治五)年に北海道開拓史として明治政府に入り,1874(明治七)年には初代駐露公使としてサンクトペテルブルグで樺太・千島交換条約に調印した.
そして,1878(明治十一)年7月にサンクトペテルブルグを出発し,ウラジオストックまでのシベリア横断旅行を敢行する.この時の日記である「シベリア日記」が,2008年に講談社学術文庫として刊行され手軽に読めるようになった.この日記を読むと榎本がロシアの実情を知ろうという明確な目的を持ってシベリア横断旅行を行ったことが分かる.この旅行に対して,ロシア政府は様々な援助を行い,旅行を実りあるものとする努力をしていることが分かる.
まず驚くのは,過酷な行程にもかかわらず榎本が毎日きちんと日記を付けていることである.はっきりとした目的意識がなければ,このようなことは出来ないであろう.
地質に関わる言葉としては次のようなものがある.
(引用は講談社学術文庫「シベリア日記」より.引用中( )内は学術文庫の文章のまま.<>は石井の推測.引用末尾の(p○○)は学術文庫のページ数).
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「ペルム県管轄中について、ソリコム郡ルーニェフスキーには石炭山多く、その量は毎年四千万ミルリウン(百万)ボードを採るも六十年間は尽きざる筭<算>なり。」(八月三日ペルム滞在中,p40)
「砲はクルップ(ドイツの工場)の製法に全く同じ。ただ鋳る鋼の坪はクルップの坪よりも大にして、かつグラフィート(石墨<graphite>)数種へ極上の白粘土を和して作り焼きたるものなり。」(同上,製砲所見学,p41)
「この溶鋼炉の煉火石は、クワルツ(石英<quartz>)の粉へ二ペルセント石灰を加えたるものなりと。」(同上,p41)
「前文ゲネラル某よりペルムのゼオロヂカルマップ(地質図)と写真壱枚を得たり。」(同上,八月三日の追記,p43)
「ペルムよりエカテリンブルグまでは土質皆ケレイ(粘土<clay>)にして灰色なり。フルハルデケレイ(凝固粘土<verhälten Klei【独】> )の層粘土中にあるを見かけたり、いわゆるペルム・フォーマシー(ペルム系<Permian Formation>)にして到る処皆然り。」(八月四日ペルムからエカテリンブルグへ,p43)
「詰め合いの小吏を前導せしめ、すでに閉ぢたる宝石店を<小文字>八時前にすでに戸を閉づ<ここまで>開かしめ、トッパーズ<topaz>〔いはゆるウラルセ・ブリヤント(ウラル宝石)〕等の石を買ふ。」(八月五日,エカテリングブルグにて,p46)
「掘り主は予がために二十プードの土を掘らしめ、これを洗い、水銀にてアマルガメート(混合<amalgamate>)し、しかしてこれを鉄皿にて水銀を蒸発せしめ〔火に焼きて〕、しかしてこれを目方に掛けて見たるに、砂金二十二ドリありたり。」(八月六日,エカテリンブルグの沙金場にて,p50)
「道路は昨の如く北海道の新道と大きさまでも全く相似たり。処処にフルハルデケレイ<verhälten Klei【独】>の焼きたる小塊を積みて路側にあり。道普請のためなり。」(八月七日,エカテリンブルグ出発の翌日,p51)
「沙金を溶かすには、沙金一プードに付き、ボラッキス(硼砂<borax>)一フント、硝石半フントを加へるのみ。
クルシブル(坩堝<crucible>)は西伯里より出づる極上のグラフヒート<graphite>へ六パルセントのカオリン(白陶土<kaolin>)を交へ、外部にクワルツ<quartz>の粉を少しく塗りて焼きたるものなり。六次用ひ得べし。」(八月二十九日の続き,イルクーツクにて,p97)
「東西シベリヤ共に皆沙金にして、クワルツ金あらず。クワルツ金はウラルのみ。」(同上,p98)
「シベリヤ火成地のこと。
フォン・フンボルト氏はイルクーツクを以て火製の地と云へり。千八百六十年イルクーツクに地震ありて寺鐘自ら鳴れり。かつ毎年二、三次位は小地震あり。多分は冬なり。」(八月二十九日の続き 覚書,p101)
「山はなはだ嶮にして往時はフヒルカニーセ(火山性<volcanic>)たること知るべし。」(八月三十日,イルクーツクからバイカル湖の船場リスチウウヰチナヤの間,p104)
「六時半、ムヒンスカヤと云ふ村駅にて馬を代ふ。この処にて馬がしきりに泥を喰ふを見る。大岡生怪しみてこれを予に告ぐ。予これを附き添ひ役人に問ふに、塩気を含める故なりと答へりと。予ここにおいてその土を水に和し、これを試むるに果たして少しく塩気を味わへり。またラーピス(硝酸銀)水を以てこれを試みるに果たして白色の沈澱を致せり。ラーピスを溶解せし水は、この所の河水なれども沈澱物なし。これを以て知るべし、この地一般河水にも塩気あるにはあらざるを。
この沢土にかく塩気ある以上は草にもまた然り。故に牛馬のためにもまた宜し。」(八月三十一日,バイカル湖の東岸バイカルヤからクリュチェスカヤの間,p108)
「初めの沙金場の少々手前に炭酸水涌き出づる処あり。厳然囲みをなし置けり。魯俗呼んで酸水と名づく。味はなはだ佳、鉄気を多く含めり。」(九月九日,ネルチンスクの東プーチンスクにて,p132)
「しかして帰路の方なる沙金場を一見す。・・・トルフ〔泥炭<Torf【独】:peat>は一サーゼンに過ぐることなく、含金土は我が五尺ばかりにして、磐は同じガラニート〔花崗岩<granite>)なり。」(九月十日,ネルチンスク付近にて,p133)
「往々一丈ばかりの平地をなせり。ただし一方は常に岩岸をなす。しかしてその岩はサンドストーン(砂岩<sandstone>)または堅固なるコングロメラート(礫岩<conglomerate>)より成れる。この団結石中にはガラニート、クワルツ、セレニート(透石膏<selenite>)等の混和せしもの多し。」(九月十六日,アムール川のアルバヂン付近,p152)
「夜九時半頃、白山の岸を過ぐ。この岸には石灰の層ありて終歳〔一年中〕燃え烟出づと云ふ。」(同上,p152-153)
「ヒンガン<小興安嶺山脈>は支那のゴビ沙漠の尽くるより起こり、満州と蒙古を分界する山なる由。・・・石質はサンドストーン(砂岩)およびケレイスレート(粘板岩<clay slate>)に似たり。ガラニート(花崗岩)、バザルト(玄武岩<basalt>)または火山石たるラハ(熔岩<lava>)等は見えず。然れども船より望遠鏡にて見るのみなるを以て確言しがたし。ただしプリュトニック(火成<plutonic>)またはオルガニック(有機<organic>)の地質にあらざることは明らかなり。」(九月二十日,アムール川のヒンガン峡,p182)
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これらのほかに地形を記述した記事も多く,特に,舟行の場合は澪筋(みおすじ:船の通れる水路となっている深み)の長さなどを細かく記載している.
地元の人たちから聞いた話については,信用できない場合はその旨を述べている.
この紀行文を見るだけでも榎本武揚が地質学,鉱物学についてかなりに知識を持っていたことが分かる.
この知識をどこで習得したのかは不明であるが,28歳の1863(文久三)年から1866(慶応二)年までのオランダ留学と考えるのが妥当であろう.
なお,この本には榎本がオランダに留学した時の「渡蘭日記」,「両日記の解説−榎本武揚小伝」(廣瀬彦太)が載せられていて榎本の理解を助けるものとなっている.
【近代日本の万能人 榎本武揚】
榎本武揚没後100年を記念して「近代日本の万能人 榎本武揚 1936-1908」(藤原書店)が刊行された.この中で吉岡学氏が「日本地質学会の先達【学理と技芸の狭間で】」と題して榎本と地質学の関わりを述べている. それによると,
「伝習所の授業に地質学を見いだすことは出来ないが、カッテンデーケの受け持ちで週二時間地文学(自然地理学)の授業が行われており、これが西洋地質学との出会いであった.」(吉岡,2008,p217)
その証拠として吉岡氏は,「渡蘭日記」の十二月三十日の項にある
「過午(午後)三時三拾分錨を投ず。深さ十尋、底はモッドル(泥)。」(渡蘭日記,p236.講談社学術文庫)
つまり,海底の地質が何であるかを知ることは航海術には当然必要な知識であったとしている.モッドルはオランダ語で泥(modder:mud【英】)のことである,
また,「渡蘭日記」には次のような記述も見られる.
「また,同島<バタービヤ>にアールド・ヲーリー〔Aardolie 石油〕出づると云ふ。これは本邦越後のいはゆるクソーヅの油と察するに同種なるべし。この油にカルキ〔Kalk=Zime 石灰〕を和して前のいはゆるカポツク〔Kapok=Capok 木綿の樹〕のわたを和して船の吃水処に塗るに、自然石の如く堅くなりて極めてよしと云々。」(渡蘭日記,p254)
この話は,航海中にオランダ船の船長との会話で出てきたものである.
吉岡氏によれば,榎本はイギリスの石炭鉱山を見学していて,キングズカレッジの鉱物学,地質学の教授であったテーナート(James Tennant:1808-1881)から金属鉱石を多く含む鉱物標本を購入している.(吉岡,2008,113-115および215-233)
しかし,オランダ留学時代については榎本自身の記録が無く,地質学〔自然地理学〕に関して何を学んだかは現時点では,はっきりしない.
【参考文献】
榎本隆充,2003,榎本武揚の流星刀製作と「流星刀記事」/シベリア横断旅行と『シベリア
日記』.地学雑誌,112(3),453-457.
榎本隆充・高成田亨編,2008,近代日本の万能人 榎本武揚 1836-1908.藤原書店.
*吉岡,2008 はこの本の中の文章である.
榎本武揚 シベリア日記.講談社編,講談社学術文庫.
諏訪兼位,2008,榎本武揚−地学者でもあった幕末・明治の政治家−.地球科学,62巻,
(6),415-420.
地徳力,北海道の地質学の歴史 蝦夷地質学 地質学の未来とを問う.↓
<http://agch.cside.ne.jp/yezogeology/index.html>
吉岡 学,2008,オランダ留学時代−軍事科学と殖産興業−.(榎本ほか編,2008)
吉岡 学,2008,蘭学から洋学へ−イギリス旅行が示す学問基盤の変容−.(同上)
吉岡 学,2008,日本地質学界の先達.【学理と技芸の狭間で】.(同上)
吉岡 学・本間久英,2001,榎本武揚の日本地質学史上に占める位置−その一 科学者とし
ての出発−.東京学芸大学紀要4部門,53,75-134.
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