勝海舟,榎本武揚,田中正造2009/01/15 22:58

日本の公害の原点と三人

 勝海舟,榎本武揚,田中正造.この三人の接点はどこか.足尾鉱山である.

【勝海舟】

 勝海舟は1823(文政6)年1月江戸で生まれた.西郷隆盛との対面で江戸無血開城を行ったことは有名である.1872(明治5)年,49才の時にそれまで移住していた静岡から上京し,赤坂氷川町の旗本屋敷を手に入れ,1899(明治32)年に77才で没するまでここで生活した.多くの人々が出入りし海舟の談話を聞き,一種のサロンのような役割を果たした場所である.
 「海舟座談」の明治三十年三月二十七日の項に,礦毒問題が出てくる.ここでの海舟の談話の内容は明快である.この中に榎本の話が出てくる.この時,勝海舟は75才である.
 「 」内は,<巌本善治編 勝部真長校注,1983,新訂海舟座談,175-177.岩波文庫>からの引用である.

 「礦毒問題は、直ちに停止のほかない。今になってその処置法を講究するは姑息だ。先ず正論によって撃ち破り、前政府の非を改め、その大綱を正し、しかして後にこそ、その処分法を講ずべきである。しからざれば、いかに善き処分法を立つるとも、人心決然たることなし。いつまでも鬱積して破裂せざれば、民心遂に離散すべし。既に今日のごとくならば、たとえ礦毒のためならずとも、少しその水が這入っても、その毒のために不作となるように感ずるならん。」

 ここには海舟の明快な考えが示されている.被害を受けている農民の立場から鉱毒問題を見ていると感じる.

 「先達って、大蔵〔省〕の目賀田〔種太郎、海舟の娘婿〕が来た時に、あれはどうしましょうと言うから、今となってはどうなるものかと言った.しかし、田中〔正造〕は大丈夫の男で、アレは善い奴じゃと言うだけは言って置いた。」

 田中正造は海舟没後,1902(明治35)年に「知徳の臣、真の大忠」という文章を岩本善治に送っている.この中で,田中は海舟を褒めちぎっている.これとは別に『古の偽忠と、今の技師、誠によく相似たる。』(厳本善治1983)と技術者が取るべき態度について述べている.

 「榎本〔武揚〕が巡視して姑息の慰藉をしたというが、陸奥〔宗光〕などが、金を貰ったというのと、五十歩、百歩の論じゃないか。前政府の非を改むるは、現政府の役目だ。非をを飾るということは宜しくない。」

 「陸奥〔宗光〕などが,云々」は何を言っているのか不明であるが,足尾鉱山の創業者である古川市兵衛と陸奥宗光は,京都の豪商,小野組以来の知り合いであった.陸奥が1882(明治15)年に牢から出て後,新知識を得るために欧米へ出かけるが,この時,資金の一部を古川市兵衛が提供している.1891(明治24)年の第2回帝国議会で,田中正造が足尾銅山鉱毒事件に関する質問趣意書を提出した時の農商務大臣(担当大臣)であった.

「一昨年は、日光に行って〔被害状況を〕見て置いた。しかしもう〔礦毒〕長くは出まいと言うことだ。」
 
 1895(明治28)年に足尾鉱山を視察していることになる.しかし,この海舟の予想は間違っていた.1897(明治30)年に鉱害防止の大工事が行われたが,その後も洪水時に被害が発生して,問題はほとんど解決されなかった.

【榎本武揚】

 榎本武揚は1894(明治27)年,58才の時に農商務大臣に就任した.1897(明治30)年足尾銅山の被害農民代表と面会(3月3日)し,また,足尾銅山を現地視察(3月23日)して,帰京の翌日に政府の鉱毒調査委員会を設置し,足尾銅山の操業停止命令を出した.この年の第十帝国議会で農商務大臣を辞職(3月29日)した.この間わずか一月である.

 この鉱毒調査委員会は7回の会合を行い,1897(明治30)年10月に最終報告を出した.この委員会の委員には土木関係では古市公威(内務省土木技監】,地質関係では小藤文次郎(帝国大学理科大学・地質学教授)が任命されている.
 これとは別に,1897年(明治30)年5月に東京鉱山監督署署長から37項目の「鉱毒予防工事命令書」が交付された(小野崎敏,2006).公害対策工事はこの工事命令書に則って行われた.

 北海道空知炭鉱の調査に先鞭をつけ,八幡製鉄所の建設に尽力し,官を辞した後も1903(明治36)年から1908(明治41)年にかけて釧路や手塩の石炭採掘願いを出していたという(吉岡,2008)榎本武揚が,足尾鉱毒事件にどのような見解を持っていたのか興味のあるところである.特に,榎本武揚の地質・鉱山に関する知識は,当時の日本では一流のものであったと考えられるのでなおさらである.

【田中正造】

 田中正造は1841(天保12)年に,現在の栃木県佐野市小中町で名主の家に生まれた.県会議員を務めたあと,1890(明治23)年の第1回総選挙で衆議院議員となり,翌年の第2回帝国議会で足尾銅山の鉱毒問題についての質問書を提出するなどし,その後も一貫して足尾鉱毒問題の解決に力を注いだ.

 田中正造の葬儀は現在の佐野市金井上町の春日岡山惣宗寺で行われたが,4〜5万人の人が参列したと言われており,遺骨は彼を慕う人々の要望で5箇所に分骨されたという(佐野市郷土博物館の記事より)

 田中正造の活動はとても全てを追跡しきれない.ここでは興味ある写真を紹介したい.
 それは,「【小野崎一徳写真帖】足尾銅山」(小野崎敏,2006)に掲載されている【写真96】である.1900(明治32)年3月に国会議員であった田中正造が足尾銅山を視察している写真で,白っぽい毛糸のように見える帽子をかぶり地面に届きそうなマフラーをした姿で映っている.この時,田中正造はすでに60才近いのであるが,とてもそんな年には見えない.撮影場所は小滝地区,日時は1900(明治32)年3月12日となっているので,「鉱害予防工事命令書」による沈澱池が完成した後のものである.

 なお,【小野崎一徳写真帖】は,小野崎写真館4代目のブログで概要を知ることができる.
 <nikko-spot.com/blog/>

【日本の公害の原点】

 明治維新後の近代化のかなで「銅は国家なり」の号令のもと,足尾,別子,小坂,日立の四大銅山を中心に銅の生産・輸出が行われた.これに伴って様々な鉱害が発生したが,この中でも足尾鉱毒事件は,日本の公害の原点とされている.

 その被害は二つあり,一つは硫酸銅,砒素,鉛,亜鉛,カドミウムなどの重金属を含む鉱山廃水によって渡良瀬川下流の農地の農作物被害であり,足尾鉱山での精錬に伴って発生する硫黄酸化物や重金属ばい塵による煙害である【畑 明郎,2001).
 鉱山の下流では谷中村が遊水池とされて廃村になり,上流では伐採と煙害により松木村が廃村となった.
 特に,煙害防止の排ガス対策は困難を極め,コットレル電気集塵機の実用化を経て,1956(昭和31)年に無公害方式の銅製錬技術が日本で完成した.この間,半世紀が経過している.

 そして今,猛烈な発展途上にある中国などで同じような公害が発生している.日本の苦い経験を生かせないのは残念である.

【参考文献】

巌本善治編,1983,新訂海舟座談.岩波文庫.
小野崎敏編著,2006,【小野崎一徳写真帖】足尾銅山.新樹社.
畑 明郎,2001,土壌・地下水汚染 広がる重金属汚染.有斐閣選書.
吉岡 学,2008,日本地質学の先達【学理と技芸の狭間で】.榎本隆充・高成田亨編,近代  
  日本の万能人 榎本武揚,215-233.


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