羅臼岳2014/10/01 22:49


写真1 国道335号の羅臼峠から見た羅臼岳
 山頂の溶岩ドームが,はっきりと分かる。右に三ッ峰,サシルイ岳と連なる。
 

 羅臼岳は知床半島のほぼ中央にある標高1,661mの活火山である。知床横断道路の知床峠から間近に見ることができるので,知床半島の付け根付近にあると勘違いしがちである。知床横断道路は,西のウトロと東の羅臼を結んでいて,このどちらの町も半島の中程にある。知床半島の付け根は,西海岸では斜里町側の峰浜,東海岸では標津町の薫別である。
 
 知床半島には羅臼岳のほかに知床硫黄山,天頂山の二つの活火山がある。国後島には4つ,択捉島には7つの活火山がある。知床半島,国後島,択捉島は「ミ型」に分布している。根室半島から歯舞群島,色丹島に連なる地域(前弧スリバー)には火山はなく,主に白亜紀の海成泥岩砂岩互層やはんれい岩類が分布している。
 千島海溝では太平洋プレートが北西方向に斜めに沈み込んでいる。そのために,知床半島には左横ずれの力が働くこと,火山前線であるために根室半島などに比べ地温が高いことなどのために雁行状の配列が形成されたと考えられている。(貝塚,1994,773pの図3.木村,2002,61-62.など)。

 知床半島の基盤岩は,新第三紀中新世の安山岩や火山礫凝灰岩,海成堆積岩類である。その上に海別岳(うなべつ・だけ),遠音別岳(おんねべつ・だけ),知床岳などの中期更新世の火山と羅臼岳,硫黄山などの後期更新世以降の火山が半島軸部を構成している。

 羅臼岳への登山道は,羅臼コースとウトロ側の岩尾別コースがある。羅臼コースは,標準的な登りの時間が6時間であるのに対し,岩尾別コースは4時間少々とやや楽である。岩尾別コースの登山口である岩尾別温泉「ホテル地の涯」の標高が230mなので標高差が約1,430mと,羅臼コースより約150m小さいのが効いている。
 岩尾別コースは,急な登りが少なく,登って下ると言うこともほとんど無く,非常に優しいコースである。羅臼平への最後の登りである大沢が,ちょっと歩きにくい程度である。
 今回(2014年9月23日)は,朝6時20分に登山口を出て,羅臼平には同10時頃到着した。3時間40分である。

 ここから頂上までの岩塊原登りは結構きつい。天気が良かったので迷うことはなかったが,霧が出た場合は,岩に描かれている黄色の矢印を見失わないようにしないといけない。また,岩塊は崩落して時間が経っていないので角が鋭いものがあり,ゴム付きの軍手で良いので手袋を履いた方が良い。
 
 頂上へは,羅臼平から1時間で登ることができた。斜面の勾配が急になる標高1,450mにある「岩清水」の水は,ぜひ飲んでみることを勧める。びっくりするくらい冷たかった。
 頂上では,さすがに風が冷たかった。半島先端方向には三ッ峰,サシルイ岳,硫黄山がはっきりと見え,今日の登山の目的であった二重山稜を見ることができた。頂上には30分ほど居て下山をはじめた。頂上から羅臼平までは,登りと同じ1時間かかった。

 この日は天気が良く風もなかったので,羅臼平でゆっくりと昼食をとった。木々の紅葉も始まっていて,羅臼平から降りるのが惜しかった。
 今度は,羅臼平からサシルイ岳まで行って三ッ峰北東斜面の地溝を撮影したいと思った。

 帰りは,弥三吉水を過ぎてからの歩きが長くて少々疲れてしまったが,知床峠からの羅臼岳を撮りたくて急いで降りた。


写真2 オホーツク展望のラピリストーン(火山礫凝灰岩)


写真3 通称「仙人坂」付近から見え始めた羅臼岳
 ようやく日が昇ってきた。山体全体が雲に包まれている。


写真4 650m付近の黒色泥岩
 登山道に露出した泥岩の層理面が階段のようになっている。真っ黒で硬質な泥岩である。5万分の1地質図幅「羅臼および知円別」では,イワウベツ川層の頁岩である。
 この少し先に「ヒグマ出没多発区間」の看板がある。この付近から,弥三吉水,極楽平を経て大沢の登りまでは,熊にとって天国のような場所であろう。


写真5 650mピークを過ぎた辺りから,硫黄山が見え始めた
 一番左が,三角の独特の山体を持つ硫黄山である。その右手前はオッカバケ岳か。


写真6 弥三吉水を過ぎた付近の羅臼岳火砕流堆積物
 弥三吉水は最上部の火砕岩類の下底から湧き出しているのだろうと思う。ここまで,約1時間半,この場所に水場があるのは助かる。


写真7 極楽平から見た羅臼岳
 極楽平の標高は820mくらいで,頂上までようやく半分の高さまで来たことになる。登山口から約2時間かかっている。


写真8 大沢入口
 羅臼岳と三ッ峰の間の鞍部から発している沢である。ひたすら登る。この手前の銀冷水には携帯トイレ用のブース(木造の小屋)がある。使用済みの携帯トイレは登山口の回収箱に入れる。


写真9 知床三湖が見える
 大沢の登りで振り返ると知床五湖の一部が見える。この付近までは,漁船のエンジン音が聞こえる。ほとんど人の居ないところなのに,不思議な感じである。


写真10 大沢左岸の安山岩溶岩
 羅臼岳の最上部溶岩流であろう。やや赤味を帯びた黒灰色の安山岩である。


写真11 羅臼平手前から見た羅臼岳
 溶岩ドームと裾野に広がる一面のハイマツの原は感動ものである。ハイマツ原の部分は火砕流堆積物の分布域で,山体は最上部溶岩流である。その上に突き出したのが溶岩ドームである。


写真12 羅臼平からの羅臼岳
 山体は左から右へ流れたような流走面らしき構造が認められる。ここから見ると,はたして頂上まで登れるのだろうかと不安になる。


写真13 三ッ峰の二重山稜
 北からオッカバケ岳,サシルイ岳,三ッ峰と続く二重山稜の延長である。登山案内書の写真を見ると,この反対斜面に見事な地溝が見られる。次回は羅臼岳に登らず,サシルイ岳へ登って写真を撮ろうと思う。


写真14 岩清水
 標識の左上にある水色のコップに,滴り落ちる清水が溜められている。アイスを一気に食べたときのような冷たさがある。ここから斜面は急になる。


写真15 溶岩ドーム
 標高1,500m付近から見上げた溶岩ドームである。
 中央左側が頂上である。先行した人がかすかに見える。


写真16 溶岩ドーム直下
 これだけ見ていると,どうやったら登れるのかと恐怖にかられる。標高1,570m付近である。


写真17 頂上
 ついに到着。岩塊の積み重なりである。


写真18 頂上から半島先端を見る
 一番手前が三ッ峰,その向こうがサシルイ岳,一番遠く左の尖った山が硫黄山である。硫黄山の右の白く見える尾根は,変質によって植生がつかないためと思われる。右下に白く見えるのは残雪である。
 この日は,半島付け根方向は雲が湧いていて,ほとんど下界の景色を見ることはできなかった。


写真19 山頂の安山岩
 この岩石は,流理が発達し硬質で,赤味を帯びた黒灰色を呈した輝石安山岩である。


写真20 石英安山岩の岩塊(標高1,532m付近)
 多分,石英安山岩だろうと思う。石英と斜長石が認められる。黒い鉱物は輝石のように見える。この石の面白いところは,径数mmの空洞があり,その中にガラスが鍾乳石のような形で引き延ばされて残っていることである。繊維状のガラスも見られる。


 羅臼岳に関連した資料でウェブサイトから入手できるものには,次のようなものがある。

 ★伊藤陽司・山岸宏光,1996,北海道東部,知床半島における新たな活断層の発見.地球科学,50巻,43-53.(CiNii から)

 ★貝塚爽平,1994,太平洋周辺地帯にみられる第四紀地殻変動の諸様式.地学雑誌,103巻,770-779.(J-STAGE から)

 ★気象庁,(2014年10月1日現在),日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 メニュー
(http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/menu_jma_hp.html)

 ★土居繁雄・酒井純俊・松井公平・金 喆祐,1970,5万分の1地質図幅説明書「羅臼および知円別.北海道開発庁.
(北海道立総合研究機構 地質研究所のサイトから。地質図は「地質Navi」で見ることができる。)

 ★宮地直道・中川光弘・吉田真理夫,2000,羅臼岳火山における最近2200年間の噴火史.火山,第45巻,第2号,75−85.(J-STAGE から)


昭和新山に登る2014/10/02 13:56

 昭和新山は国の特別天然記念物(1957年6月19日指定)で,現在は,自由に登ることはできない。この山は個人所有物で,昭和新山の向かいにある三松正夫記念館(館長:三松三朗氏)の屋外展示物である。


写真1 2014年9月19日朝の昭和新山

 今回の登山は,日本応用地質学会北海道支部などが主催した現地見学会である。以下,写真を示しつつ昭和新山を紹介する。


写真2 挨拶する三松三朗 三松正夫記念館 館長
 登山の前に,三松正夫記念館の前で館長の説明があった。左の二人は洞爺湖有珠山火山マイスターの福島 豪氏と高橋裕子氏で,一番右は壮瞥町商工観光課の三松靖志氏である。登山の案内は,三松館長を除く3人が担当してくれた。


写真3 登山口へ向かう
 心配された雨も降らず,天気に恵まれた。この日は,右手の木々の間の登山口から時計回りで裏側に廻って屋根山へ登り,頂上へ向かった。頂上は,この写真では中央の尖った部分らしい。現在の標高は389m(地理院地図)で,誕生直後(1945年9月20日)の標高約407mからは18mほど低くなっている。1984年の2.5万分の1地形図では,402.3mであった。


写真4 昭和新山前広場に設置されたミマツダイヤグラム
 原図に比べ,線は簡略化されている。線が密になっているところは,成長が遅かった部分である。最初,溶岩ドームの下が急速に持ち上がり,その後,南東側(図の左手)の上昇速度が増すと同時に,溶岩ドームが急速に成長をはじめたことが読み取れる。


写真5 屋根山に向かう
 麓はかなり植生が回復してきている。ニセアカシアが多い。


写真6 昭和新山北西麓の屋根山の植生
 まだ,木は細いが林となっている。この向こうに新山がある。


写真7 溶岩ドームの裾
 左は溶岩ドームの本体,右の植生のあるところは屋根山である。


写真8 溶岩ドーム東斜面
 標高335m付近から頂上を見上げる。ここからが急な登りになる。ドーム本体は斜方輝石デイサイト(曽屋ほか,2007,有珠火山地質図(第2版).産業技術総合研究所 地質調査総合センター)とされているが,変質し,かつ角礫化していて,原岩を肉眼で判定するのは難しい。


写真8 登山道の変質したデイサイト
 ドームの表面は全体に褐色化しているほかに,白色の変質鉱物が形成されている。非晶質の珪酸塩鉱物や石膏のほかに,カオリナイトやスメクタイトと言った粘土鉱物が形成されている。


写真9 頂上から望む洞爺湖
 山頂は小さな二つのピークからなる。そのうちの北側のピークからの写真である。洞爺湖と中島,その向こうに羊蹄山が見える。古い写真を見ると,かつて,このピークは尖った三角錐状の形をしていたが年月の経過で大分丸くなった。


写真10 南側のピーク
 右側は絶壁であるが,左(東)斜面には草が生えてきている。


写真11 溶岩ドームの南東壁
 この部分のドームは中心のデイサイトが現れているようで,全体に赤味を帯びた黒灰色を呈している。タマネギ状の冷却節理も認められる。


写真12溶岩ドームの南西壁
 全体にレンガ色を呈している。褶曲したような「流理構造」が認められる。


 昭和新山に関する資料は様々ある。簡潔に全体をまとめたものとしては,「火山誕生を見守り続けた郵便局長 三松正夫記念館」(三松三朗,2004,地質ニュース,597号,52−59.)が優れていると思う。


本の紹介:日本語の考古学2014/10/13 11:20



今野真二,日本語の考古学。2014年4月,岩波新書。

 古い書物を丁寧に追いかけていくと日本語にかかわる知見が得られることがある。これは,ちょうど考古学者が遺物をきれいにした時に感じる感覚に似ているのではないかというのが,このような本の題名となった理由だと言う。

 万葉集に収められている歌は,声に出して歌われ,音声によってのみ伝えられていた時期があったはずである。万葉集が最初にできあがったのは,7世紀後半から8世紀初頭である。つまり,この頃,歌が文字化されたと考えられる。それは,柿本人麻呂の頃である。歌を書いたと思われる木簡が,難波宮跡から見つかっている。
 ここからは,現在残されている書物としての「万葉集」を丁寧に見ていく内容となる。

 目次は,以下のようになっている。それぞれに副題が付いているが省略する。

一 「書かれた日本語」の誕生
二 『源氏物語』の「作者」は誰か
三 オタマジャクシに見えた平仮名
四 「行」はいつ頃できたのか
五 和歌は何行で書かれたか
六 「語り」から「文字」へ
七 「木」に読み解く語構成意識
八 なぜ「書き間違えた」のか
九 「正しい日本語」とは何か
十 テキストの「完成」とは

 原本の写真が豊富に載せられていて,話が具体的である。ローマ字で書かれた天草版「平家物語」(1592年)の話,「書き間違い」から分かること,などの話は非常に興味深い。


〜4つの土木遺産と高速道路トンネル工事現場〜2014/10/23 13:37

土木遺産シリーズ5
港町小樽のインフラ100年の物語
〜4つの土木遺産と高速道路トンネル工事現場〜

 2014年10月18日(土)に行われた土木学会北海道支部主催のバスツアーです。案内は,原口征人氏(北海道開発技術センター)と石川氏でした。
 見学地は,張碓橋,小樽斜路式ケーソンヤード,小樽港北防波堤,小樽総合博物館,奥沢水源池,北海道横断自動車道天狗山トンネル工事現場でした。小樽総合博物館,天狗山トンネルを除いて,いずれも土木学会推奨土木遺産です。


写真1 旧国道5号 張碓大橋

 快晴の札幌を出発し国道5号を通って小樽に向かいました。途中で,旧国道5号に架かる張碓橋を見学しました。この橋は,1933(昭和8)年に架けられました。北海道で初めて造られた形式の鋼アーチ橋で,橋長は72m,中央径間長は48mです。現在も現役として使われていて,見学時にも大型ダンプカーが通っていました。


写真2 小樽築港のケーソンヤード
 クレーンとケーソを組み立てる台座です。台座の下にコンクリートの斜路があり,陸上で製作したケーソンを進水させます。2005(平成17)年に最後のケーソンが進水し,役目を終わりました。

 次は,小樽港の斜路式ケーソンヤードです。斜路と言うのは,ケーソンを組み立てる床が坂(斜路)になっていて,斜路の上の水平な台座で製作したケーソンを斜路を使って海に浮かべる施設です。下のサイトに,ケーソンを海に浮かべる様子の連続写真があります。
( http://www.umeshunkyo.or.jp/108/prom/230/page.html )
 場所は,国道5号を札幌から行った場合,平磯岬のトンネルの手前を海側に曲がって,岬を過ぎたクレーンが立っている場所です。小樽開発建設部小樽港湾事務所の「みなと資料館」があります。


写真3 ケーソン台座とコンクリートの斜路
 保存されている施設は1912(大正元)年に完成したものです。

 第4代北海道長官の北垣国道に,廣井 勇が小樽築港の必要性を説き,内務技監の古市公威の承認を経て1897(明治30)年に北防波堤が着工されました。この当時,外洋に面した防波堤を作るというのは,技術的にかなりの冒険であったと思われますが,札幌への物資などの運搬や道内の鉱工業生産物を運び出すための拠点としての必要性があったと思われます。1882(明治15)年には石狩炭田の幌内と小樽の手宮を結ぶ鉄道が開通しています。
 最初のケーソン製作から120年近くが経っているわけですが,ケーソンで建設された防波堤は,今も現役で残っています。もう一つ,この工事で特筆すべきことは,モルタルブリケットと呼ばれる平たいヒョウタン型のモルタル供試体を約6万個作成し,1937(昭和12)年まで約40年間,経年変化の調査を行っていることです。現在も約4千個が保管されています。


写真4 ケーソンヤードから見た南防波堤
 第1期工事として北防波堤(L=1708m) が造られ,そのあと第2期工事として1908(明治41)年から南防波堤(L=932m) と島防波堤(L=915m) が造られました。この第2期工事で,コンクリートケーソンが採用されました。


写真5 北防波堤の斜塊
 北防波堤ではコンクリートブロックを隣のブロックに,も垂れかかるように斜めに積んだ部分(丙部)があります。この斜塊(斜めのブロック)の地表側が水平になるようにこのような形のブロックを製作しました。このブロックの骨材には,玉砂利のほかに角張った砕石が使われています。角がある骨材の方がコンクリートが丈夫になるという考えからだそうです。様々な工夫がなされました。


写真6 小樽港北防波堤
 この下には砕石によるマウンドがあり,波による洗掘を防ぐブロックが設置されています。

 小樽港南防波堤の付け根から海岸道路を通って北防波堤の付け根に行きました。北防波堤が,小樽港の外洋防波堤の原点です。ここでは,甲,乙,丙の三つのタイプの積み方が使われました。甲部は現場打ちコンクリートブロックを積んだもの,乙部はブロックを直に積んだもの,丙部はブロックを隣のブロックに,もたれかからせて積んだものです。この丙部の積み方は,スローピングブロック(斜塊)工法と呼ばれた工法です。北防波堤の付け根付近は埋め立てが行われ地形が変わっていて当時の防波堤の付け根がどこか,はっきりと特定できないようです。

 この北防波堤の内側に,石炭の積み出しが行われた高架桟橋が設けられました。この高架桟橋は長さ約400mで,桟橋の上から石炭を船に落とし込むという方法で積み込みを行いました。この様子を示した模型は,小樽総合博物館に展示されています。また,下のサイトに1925(大正14年)6月発行の「小樽港湾市街図」(縮尺1万分の1)が載っています。この図では,1914(大正3)年〜〜1923(大正12)年にかけて建設された小樽運河の埋め立て地が,「第一期修築工事」として赤い斜線付きで表示されています。現在,運河公園となっている「日本郵船 船入澗」も描かれています。
( http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002415552_o.html )


写真7 小樽市総合博物館の機関車庫
 レンガ造りの機関車庫で,左が1号,右が3号です。1号機関車庫は片屋根になっていて後ろに雪が落ちます。3号機関車庫は前と後ろに屋根が傾斜しています。その前に機関車の方向転換を行う転車台があります。国の重要文化財ですが,現在でも使われています。

 次に向かったのは,小樽市総合博物館です。鉄道マニアにはおなじみの博物館だと思いますが,今回はレンガ造りの機関車庫を主に見ました。その前に,博物館に展示されている高架桟橋の模型を見ました。石炭を積んだ貨車が自走してきて石炭を落としたあと独りでに戻っていくという仕掛けがしてあったそうです。
 機関車庫はレンガ造りで機関庫の前には転車台があります。そのため,機関庫は扇型になっています。内部は補強用の鐵の支柱と梁が設けられていますが,良く保存されていて,車体の下を検査する溝もそのまま復元されています。1909年にアメリカで製造された蒸気機関車,アイアンホース号が構内の線路を走っています。


写真8 アイアンホース号
 1909(明治42)年にアメリカで製造された機関車で,博物館構内の線路を走ります。
 

写真9 運河公園
 日本郵船の建物の前の運河公園です。ここには,かつて船入澗がありました。噴水の右端の直線に並んだ黒い敷石が,当時の船入澗の範囲を示しています。公園の向こうは運河です。

 昼食の場所に向かう途中で運河公園に寄りました。日本郵船の建物の前で,かつてはここに船入澗がありました。公園の石畳の広場に船入澗のあった場所が色の違う黒灰色の石で示されています。

 昼食は,中央バス小樽バスターミナルの近くの天ぷら屋に入りました。割合,空いていて,揚げたての天丼を食べました。昼休みは,運河の海岸側を歩きました。運河へは於古発川が流れ込んでいて,海へは第三号埠頭と色内埠頭の間で繋がっています。


写真10 奥沢浄水場
 4つの池が並んでいます。左に取水塔からの水の入口があり,右の白い建物のポンプで配水していました。緩速濾過方式で1日約6,000トンの水道水をつくっていました。池に敷き詰められた砂は,石英がキラキラ光る川砂だと思います。

 小樽市の水源であった奥沢水源池は,勝納川(かつない・がわ)の中流にありました。1914(大正3)年に心壁式アースダムとして建設された「奥沢ダム」は,2011(平成23)年にダム堤体に陥没箇所が見つかりダムとしての役割を終えました。現在は,中央部を掘削され勝納川支流の二股沢の水を流しています。奥沢水源池を有名にした階段式溢流路は,勝納川本流の水を流していて現在も健在です。
 まず,水源池の下流にある浄水場を見ました。4つの濾過池を交互に使って緩速濾過方式で1日約6000トンの浄水を造っていました。すでに使用を止めてから4年近くが経っていますが,濾過池の表面には,ほとんど草が生えていません。水の通りが良いためではないかという話でした。
 ダム堤体の左岸に登りました。取水塔が目の前です。上流には人家は一軒もなく,天狗山,於古発山,松倉山,毛無山に囲まれています。


写真11 開削された奥沢ダム
 アースダムで,中心に粘土の遮水壁を持っていました。堤の高さは約28m,貯水量は約42万立方メートルでした。手前の流れは階段式溢流路からの勝納川本流の水で,堤体を横断して流れてくるのは支流の二股沢の水です。右奥に取水塔が見えます。右の水色の橋には浄水場への導水管が通っています。


写真12 階段式溢流路
 ダム左岸に設けられた洪水吐(こうずいばき)からの水を流す流路です。

 最後は,現在工事中の北海道横断自動車道・天狗山トンネルの現場です。延長2,978m,縦断勾配は約1.6%で,地山は新第三紀中新世の含軽石火山砕屑岩類です。掘削幅は約12m,掘削断面積は92m^2です。掘削は,余市側から行われていて,いわゆる「突っ込み」での掘削となっています。緩く下りながらトンネルを掘っています。トンネル開通は2018(平成30)年の予定です。


写真13 天狗山トンネル余市側坑口
 右にベルトコンベアがあり,左の送風管の下にトンネル排水が出てきています。

 この日は,坑口から992mまで掘削が進んでいました。坑口排水量は毎分約1,000リットルで当初予想より多いそうです。1日平均6mで掘進が進んでいるとのことでした。
 このトンネルでは,ズリ運搬にベルトコンベアを使っています。また,覆工コンクリートの養生をアクアカーテンで行っています。これを使うことで,コンクリート打設の翌日には型枠を外してアクアカーテンでの給水養生を行うことができ,質の良いコンクリートができるとのことでした。アクアカーテンは覆工コンクリートに接する面が透水性・保湿性の繊維からできていて給水養生が可能となっています。


写真14 坑口部の支保工
 坑口部の支保パターンは,DIIIa-H-Kで,鋼アーチ支保工はHH-154を使っています。ロックボルトは側壁付近にのみ片側3本づつ打設していて,上半120度の範囲にフォアポーリング(先受けボルト)を打設していると思います。

 現在,NEXCOでは,鋼アーチ支保工は高規格鋼を使っています。DIパターでは鋼アーチ支保工はHH-100(従来は,NH-125),DIIパターンでも鋼アーチ支保工はHH-108(同NH-150)ですので,これまでと比べると頼りない感じがします。
 坑口から300m付近は小樽北照高校の野球場の下を通ります。このグラウンド造成時の切土で地すべりが発生しています。この区間は,補助工としてAGF工法を24シフト(216m:設計時)施工しているため,上半にはロックボルトを打ち込んでいません。
 見学時(2014年10月18日)現在,切羽は坑口から約1,000mですから,於古発川の下を通過するやや手前あたりに達しています。今回切羽を見ることはできませんでしたが,色々と勉強になりました。


写真15 給水養生の様子
 覆工コンクリートを給水養生しています。ズリ運搬がベルトコンベアなのでトンネルの中がきれいな感じがします。


写真16  地すべり直下の支保パターン
 DI-S-a-KM パターンで,鋼アーチ支保工はHH-100を使用しています。ロックボルトは側壁のみです。

 トンネルに入る前に見せてもらったトンネル掘削の様子を写したDVDは非常に良くできていて,トンネルの掘削工程が分かりやすく描かれていました。


写真17 北の誉の酒蔵見学
 酒を搾る機械です。ここから出てくるのが槽口酒(ふなくち・さけ)なんだそうです。

 最後は,北の誉の酒泉館です。1901(明治34)年創業の小樽の酒造りです。奥沢水源池下流の勝納川の河畔にあります。醸造している工場を,製造工程の逆に案内してもらいました。良い香りが漂っていて,なかなか良い感じでした。700円弱の純米吟醸酒の小瓶を買いました。うまかったです。

 このツアーを準備して下さった土木学会北海道支部の方々,見学場所の関係者の方々には深く感謝致します。大変有意義なツアーでした。


走るシーズンが終わりました2014/10/24 11:00


真駒内駅から会場へ向かう(2014年10月5日:札幌マラソンの日)
 この季節,この通りは秋らしくて気持ちが良いです。

 10月19日の北海道ロードレースで,今年のランニング大会は終わりました。
 この大会では,久しぶりにハーフを走りました。15kmまでは,それなりに走っていましたが,その先はヨレヨレでした。久しぶりに足がつってしまいました。タイムは2時間35分08秒。70歳代で34人中30位という結果です。

 今年は,4月に伊達マラソン10km,5月に藻岩山ヒルクライム(4km),7月に美瑛マラソンのハーフ,10月に札幌マラソン10km,そして北海道ロードレースのハーフでした。


真駒内公園の紅葉(2014年10月19日:北海道ロードレースの日)
 カエデの赤とポプラの黄色が見事です。10月19日は晴天でした。昔は11月の初めにやっていたことがありましたが,ミゾレが降ったりしてかなり厳しかったです。

 時間が自由になると,かなり気合いを入れないと練習に行かなくなります。ちょっと寒いと暖かくなってからとか,何となく眠いと疲れが取れていないとか,理由はいくらでもつきます。その結果,ハーフでさえ,フルマラソンの35km過ぎのような状態になり,走っているのか歩いているのか分からない状態になってしまいます。

 それでも,身体を動かすと言うのは気持ちの良いものです。これからも,無理をせず楽しみながら走りたいと思っています。