山岸宏光さん ― 2021/07/04 10:12
山岸宏光さん
山岸宏光さんが2021年6月3日(木)、多臓器不全で亡くなりました。
北大地質学教室の教養部講座を卒業し、北海道地下資源調査所に入り、新潟大学、愛媛大学などで教職を経験し、最近は札幌市の新技術コンサルに勤務していました。
業績としては水中火山岩、地すべりなどが主で、最近はGISを使った地質や防災の仕事をしていました。
山岸さんとは、私が地質学教室に移った頃からの付き合いで、学年は山岸さんが1年上でした。山岸さんが言い出しっぺで、私の同級の赤松を中心に化石研究会という同好会をつくり巡検などを行いました。この会は「シュマの会」と名前を変えて現在も続いています。
図1 化石研究会誌創刊号の表紙とメンバー(赤塚正明さん提供) 山岸さんを含め11人のメンバーで会は発足し、私たちが三年生になった1965(昭和四十)年4月に創刊号を発行しました。この号では、言いたいことを書くという方針で原稿を集めました。かなり熱い内容の文章が多いです。この年の3月には、秋吉台から四国へ渡り琴平、大歩危、高知、戻って最後は屋島までの本州巡検が行われました。 その後行ったことはありませんが、秋吉台、大歩危などは印象的でした。琴平で一泊したので、夕飯を食べてから夜一人で走って石段を登り金比羅宮まで行きました。 |
道立地下資源調査所に入った山岸さんは、5万分の1地質図幅調査も担当しました。そのうちの「余別および積丹岬」(1979年発行)では、積丹団研の縁で私も協力しました。山岸さんは全域を歩きましたが、私は西海岸を歩きました。
当時は、西の河原(さいのかわら)まで海岸沿いに人の歩ける道がついていました。オプカルイシの手前の窓岩には、ハンマーを片手に、泳いでいって安山岩であることを確認しました。
ノット川は沢を詰めたのですが、行けども行けども露頭がありませんでした。その後、私は地質調査会社に入り、多少、空中写真を見るようになりました。積丹半島の空中写真を見てようやく大規模な地すべりがあることに気が付きました。最初に見たのは、積丹岳、余別岳、ポンネアンチシに囲まれた地すべりでした。これは感動しました。地すべりの輪郭だけの判読図を描いて山岸さんに渡しました。山岸さんも空中写真を見て、沼前(のなまい)地すべりを始めとする大規模な地すべり地形を図幅に書き込みました。
オプカルイシ川を北の側部とし大天狗山から南東に延びる尾根を頭部として尾根内川を南の側部とする地すべりは、小樽から新潟へ行くフェリーから、その見事な地形を見ることができます。沼前地すべりは神威岬から全貌を見ることが出来ます。
図2 5万分の1地質図幅「余別および積丹岬」の一部 中央左に大規模な地すべりが描かれています。上端付近の半円形の地すべりが沼前地すべりです。 |
地すべりについては、1993年に「北海道の地すべり地形−分布図とその解説」が、地すべり学会北海道支部監修、山岸宏光編集で北海道大学図書出版会から出されました。
積丹半島には水中火山岩が分布しています。山岸さんが目を付けたのは忍路半島の水中火山岩類でした。
1974年の地質学会第81年学術大会で「西南北海道の新第三紀火砕岩」のタイトルで、いわゆる“集塊岩”のうち溶岩類はPillow brecciaとHyaloclastiteからなっていると述べています。
この研究は、1994年の「水中火山岩 アトラスと用語解説」(北海道大学図書刊行会)としてまとめられ、水中火山岩の貴重な文献となっています。
山岸さんの強みは外国語が得意なことです。水中溶岩の研究では内外の文献をかなり読み込んだと思われます。
1993年1月15日に釧路沖地震が発生しました。さらに、同年7月12日には北海道南西沖地震が、1994年10月4日には北海道東方沖地震が発生しました。
南西沖地震では、私は奥尻島の道道の崩壊状況調査を担当しました。大きな岩塊によって待ち受け擁壁が押し抜きせん断で破壊された状況や上に行くほど開口幅が大きくなるジグゾークラックなど地震による崩壊のすさまじさを目の当たりにしました。
この経験は、1997年に出版された「地震による斜面災害 1993年〜1994年北海道三大地震から」(北海道大学図書刊行会)に載せてもらいました。この時、山岸さんが地すべり学会北海道支部長でした。
1994年10月11日に礼文町元地で大規模な地すべりが発生しました。桃岩の南の斜面上部から発生した地すべりの土砂は、流れ下って海岸近くの住宅付近まで達しました。この地すべりは、粘土を含む土砂が高速で移動したアースフローで移動土砂の速度は時速10kmと見積もられました。この異常に速い移動速度は、地すべりの末端付近の町道に立っていた電柱が倒され電線が切れて停電になった時刻と海岸近くの民家に土砂が到達した時間とから算出されたものです。
この地すべりについては、1995年のLandslide NewsのNo.9にYamagishi,H.,Miura,M.,Ishii,M.の連名で発表しました。
図3 元地地すべり論文の最初のページ No.2の地すべりが1990年9月末に発生し、翌1991年3月31日にNo.3の地すべりが発生しました。この時、当時の稚内土木現業所の依頼で直後に現場を見に行き、その規模にびっくりしました。No.2地すべりの移動土砂が頭部荷重となり、No.3の地すべりが発生したと推定されます。No.3地すべりの対策工が終わった段階でNo.5の地すべりが発生しました。No.5地すべりは三つの流れに分けられ、No.5aが本体で、No.5bが海岸の民家に達した地すべりです。 これらのブロック分けは、現地踏査と空中写真判読で行われました。 |
2016年に私のほか三人が編集した「北海道自然探検 ジオサイト107の旅」が北海道大学出版会から発行されました。山岸さんは、この本を読んで地質学的な間違いや校正上の漏れなどを丁寧に指摘してくれました。特に水中火山岩に関しては貴重な指摘をしてもらいました。
山岸さんに最後に会ったのは、山岸さんが新潟大学に居たときに博士号を取った安田 匡(ただし)さんの葬儀でした。そして、北大教養部の助手を経てノルウェー極地研究所に移った大田昌秀(よしひで)さんが亡くなったことを電話で知らせてくれたのが最後でした。
最後まで、色々と気を遣って電話をかけてくれていたので、非常に寂しい気持ちです。
ご冥福をお祈りします。



