オプシヌプリ伝説の穴空き山 ― 2013/12/01 13:47
苫小牧から浦河に向かう浦河国道(国道235号)の富川から沙流川沿いに日高町に通じる日高国道(国道237号)がある。この国道を北上すると右手にびらとり温泉がある。この温泉を過ぎた先の看々橋を渡ると左手に駐車帯がある。ここから,にぶたに湖を挟んだ対岸にオプシヌプリ(opusi-nupuri:穴空き山)が見える。
現在は,穴の上部の岩が崩落してU字型の凹地となっている。オキクルミと言う神様が,オンコの木で造った弓にヨモギの矢をつがえて,山に穴を開けたと言う伝説がある。1898(明治31)年の大雨で上部の岩が崩れたと言われている。
この大雨は,明治31年9月6日から8日にかけて降ったものと考えられる。この明治31年洪水では,石狩川はもちろん沙流川でも,今の二風谷ダムの下流付近まで低地が水に浸かったようである。<http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/kasen/10chisui100/ryuikishi/r1_01_2.html>
オプシヌプリ全景
オプシヌプリ
この付近の地質は,中期〜後期中新世(1,500万年前〜700万年前)の二風谷層の礫岩類で,この付近では北西−南東方向の走向を示している。看々沢のやや上流に向斜軸があり,オプシヌプリ付近は上流側に10°程度で傾斜している。この礫岩がオプシヌプリの崖をつくっている。
オプシヌプリの上流で沙流川に東から流れ込む額平(noka-pira:形象のある・崖)川の合流点付近の左岸に「オキクルミのチャシおよびムイノカ」(nuy-noka)がある。この景勝地は,アイヌ文化由来の景勝地群「ピリカノカ」(pirika-noka)に指定される予定である(北海道新聞,2013年11月16日朝刊)。これを構成する地質も,同じ二風谷層の礫岩類である。
オプシヌプリの富川寄りにある菅野茂二風谷アイヌ資料館
屋外にアイヌの民家などが点在している野外博物館である。
イユタプ(iyutapあるいはiutap:穀物を精製する道具)
鹿威しの原理である。右側の樋を流れてきた水が,小屋から出ている容器に溜まると小屋の中にある杵が持ち上がり穀物を叩く。
明治10年代,二風谷の戸数は30数戸であったが,このような道具が40個所あったという(野外博物館の看板から)。当時はヒエやアワを搗いていた。
オプシヌプリ伝説の穴空き山 ― 2013/12/01 18:38
苫小牧から太平洋沿いに浦河へ向かう浦河国道(国道235号)の富川から内陸に入り,沙流川沿いに日高町に通じる日高国道(国道237号)がある。この国道を北上すると右手にびらとり温泉がある。この温泉を過ぎた先の看々橋を渡ると左手に駐車帯がある。ここから,にぶたに湖を挟んだ対岸にオプシヌプリ(opusi-nupuri:穴空き山)が見える。
現在は,穴の上部の岩が崩落してU字型の凹地となっている。オキクルミと言う神様が,オンコの木で造った弓にヨモギの矢をつがえて,山に穴を開けたと言う伝説がある。1898(明治31)年の大雨で上部の岩が崩れたと言われている。
この大雨は,明治31年9月6日から8日にかけて降ったものと考えられる。この明治31年洪水では,石狩川はもちろん沙流川でも,今の二風谷ダムの下流付近まで,低地が水に浸かったようである。
<http://www.sp.hkd.mlit.go.jp/kasen/10chisui100/ryuikishi/r1_01_2.html>
オプシヌプリ全景
手前の水面は,にぶたに湖で,画面中央の大きく凹んでいるのがオプシヌプリである。
オプシヌプリ
ほぼ中央の大きく凹んでいるのがオプシヌプリである。夏至の前後3日くらいは,この凹み(本来は穴)を通って太陽が沈む。
この付近の地質は,中期〜後期中新世(1,500万年前〜700万年前)の二風谷層の礫岩類で,この付近では北西−南東方向の走向を示している。看々沢のやや上流に向斜軸があり,オプシヌプリ付近は上流側に10°程度で傾斜している。この礫岩がオプシヌプリの崖をつくっている。
オプシヌプリの上流で沙流川に東から流れ込む額平(noka-pira:形象のある・崖)川の合流点付近の左岸に「オキクルミのチャシおよびムイノカ」(nuy-noka)がある。この景勝地は,アイヌ文化由来の景勝地群「ピリカノカ」(pirika-noka)に指定される予定である(北海道新聞,2013年11月16日朝刊)。これを構成する地質も,同じ二風谷層の礫岩類である。
オプシヌプリの富川寄りにある菅野茂 二風谷アイヌ資料館
屋外にアイヌの民家などが点在している野外博物館である。
イユタプ(iyutapあるいはiutap:穀物を精製する道具)
鹿威しの原理である。右側の樋を流れてきた水が,小屋から出ている容器に溜まると小屋の中にある杵が持ち上がり穀物を叩く。
明治10年代,二風谷の戸数は30数戸であったが,このような道具が40個所あったという(野外博物館の看板から)。当時はヒエやアワを搗いていた。



