三一独立運動100年に考える ― 2019/03/02 22:48
百年前の3月1日,日本が植民地支配していた朝鮮で独立運動が行われました.
2019年3月1日(金),札幌市のエルプラザ(札幌市男女行動参画センター)で表記講演会が開かれました.主催は,「日本の戦後責任を清算するために行動する北海道の会」です.
講師は立命館大学・文学部客員教授の水野直樹氏でした.

写真1 講演する水野直樹氏
水野氏は1950年生まれで,京都大学文学部を卒業し,京都大学・人文科学研究所に勤務していました.「創氏改名-日本の朝鮮支配の中で」(2008年3月,岩波新書)などの著書があります(講演会のチラシから).
まず,主催者を代表して林 炳澤(イム・ピョンテク)共同代表が挨拶しました.
日本の植民地支配について日本人が直視すること,日本人の目線で発信することが大切だと話しました.
水野直樹氏の講演
三一独立運動については,「朝鮮での反日運動」というレッテルが貼られることが多いです.しかし,この運動は,日本の植民地支配への抵抗運動です.
また,1919(大正七)年3月1日の三一独立運動の宣言書には,日本人への問いかけ,呼びかけが含まれています.これに応えていれば,二〇世紀の日本の歴史は変わっていたでしょう.
独立運動が起こった国内的な背景は,日本が鉄道や道路の整備のために朝鮮人の土地を強制的に取り上げ朝鮮人に賦役労働を強いたこと,近代化と称して朝鮮の伝統的文化を破壊したことなどがあります.例えば,朝鮮にはむち打ちの刑がありましたが,これを厳格に実行するようにしたことや先祖伝来の墓を共同墓地にするなどといったことがありました.
世界的情勢としては,1918年11月に第一次世界大戦が終了し,1919年1月にはパリで講和会議が開かれました.この会議では,民族自決の原則にもとづく植民地問題の公正な解決が提案されました.東ヨーロッパの国々が民族自決原則の対象となりました.
このような中で,1919年2月8日に東京の朝鮮人留学生たちが,二八独立宣言を出します.
三一独立宣言書は,朝鮮国内の天道教,キリスト教の人々に学生が合流する形で作られました.宣言書に名前を載せているのは33人ですが,全員がすぐに逮捕されています.
この独立宣言の現物は,現在8枚ほどしか残っていません.
宣言書のうしろに「公約三章」いうのがあります.この中で,今回の行動は民族的要求であって排他的感情に走ってはならない,一切の行動は秩序を尊重して光明正大であることとしています.非暴力で行動することを公約しています.
最初の行動では,3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園(現在のタブコル公園)に数千人が集まりました.そして学生や労働者のストが行われ,区長クラスの人たちも参加します.都市部から農村部へと行動は広がっていきます.独立宣言文を朗読し,「独立万歳」の集会や示威行動を行うというものでした.鉦や太鼓,ラッパなども持ち出してお祭り騒ぎのような行動も行いました.集落を囲む山でたいまつを灯したりなど多様な行動がありました.
ほぼ全土に広がり200万人以上が参加したと言われています.
警察駐在所に数千人の人たちが押しよせ,駐在所から警官が引き上げたところもありました.一種の「解放区」が形成されました.
日本政府は報道管制を敷き,中隊規模で軍隊を分散配置して弾圧しました.日本側官憲の死者は8人であったのに対し,朝鮮側の死者は確認されただけで7,500人余という数字があります.
第二次世界大戦では1945年9月にソ連が朝鮮に侵攻します.戦前の日本では「皇土朝鮮」といって朝鮮を植民地として手放そうとしませんでした.これが戦後の朝鮮半島の分断を生んだと言えます.
日本は植民地支配をキッチリと清算する必要がありますし,南北分断の一因を作った国としての歴史的責任を負っています.
図1 三一独立運動勃発の都市
(帝国書院編集部,図説 日本史通覧.2015年2月,帝国書院から)
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