「北方領土」2016/11/24 12:09

<日ソ共同宣言から60年>

 1945年8月の敗戦によって,日本は千島列島を失いました.人の記憶がはっきりするのは3才くらいからと言われています.すでに敗戦から71年が過ぎている今,千島で暮らしていた人たちで,故郷としての記憶を持っている人たちが少なくなりつつあります.
 戦後レジームの一つとして残っているこの問題の解決が急がれます.

 2016年10月19日は,1956(昭和三十一)年に日ソ共同宣言が発表されてから60年になります.この宣言の中では,「北方領土」について次のように述べられています.

「9 日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。」

 しかし,その後,平和条約は結ばれず,ロシアとの領土問題は未だに解決していません.
 
<サンフランシスコ平和条約>

 ところで,日ソ共同宣言の前,1951年9月に結ばれたサンフランシスコ平和条約には,次のような条文があります.

「 第二章 領域 第二条(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

 この条文は,普通に読めば,千島列島の国後島からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅ・とう)までの領有を放棄するということだと思います.

<放棄した千島の中に国後・択捉は入らないのか?>

 サンフランシスコ平和条約批准のための国会で西村熊夫条約局長は次のように答弁しています.これは,批准国会での政府の統一見解でした.
 「条約にある千島列島の範囲については,北千島と南千島の両者を含むと考えています.」(1951年10月19日)

 では,いつ変更になったのか.

 1955年6月にロンドンで日ソ国交回復交渉が始まりました.この時,日本が最初に示した領土問題の覚書は次のようなものでした.

 「歯舞諸島,色丹島,千島列島及び南樺太は歴史的にみて日本の領土であるが,平和回復に際しこれら地域の帰属に関し隔意なき意見の交換をすることを提案する」(1955年6月7日)

 この提案をよく読んで欲しいのですが,樺太千島交換条約で交換した樺太についても意見交換をするという「能天気」なものです.ましてや,「北方領土」という考えも持っていなかったと考えられます.

 同年8月になって,ソ連が歯舞と色丹については放棄する意志があることが,ほのめかされます.この交渉の全権であった松本俊一氏が東京に訓令(上級官庁が権限の行使を指揮するために発する命令)を仰いだところ,
 「歯舞,色丹のみの返還では領土問題の解決にならないという見解をとって,国後,択捉の二つの島についても,この二島は千島,樺太交換条約の示すように日本固有の領土であって,いわゆる千島列島に含まれていないという見解を示してきた.」(不破,76p)
 というのです.

 つまり,1955年8月にサンフランシスコ平和条約の「千島放棄条項」の解釈変更が行われたのです.完全な後出しです.

<日露通好条約 いわゆる下田条約>

 1855(安政元)年に日露通好条約,いわゆる下田条約が徳川幕府とロシアの間で結ばれました.
 この条約では,「ウルップ全島夫より北の方クリル諸島」となっているので,クリル諸島には択捉島以南は含まれないと言う主張があります.つまり,ここで言う千島列島というのは,得撫島(うるっぷ・とう)以北の島のことで,歯舞群島,色丹島,国後島,択捉島の四島は千島列島に入らない.「北方領土」(択捉島,国後島,色丹島,歯舞群島)は日本固有の領土だという考えです.
 なお,この日露通好条約では,樺太について国境を設けず,日露混在の地とされました.

 以下に,日露通好条約の二つの条文を示します.

 第一の条文は日本語条文です.

「今より後日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島と ウルップ島との間に在るへし ヱトロプ全島は日本に属し ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亜に属す カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす 是まて仕来の通たるへし」(日本語条文:ウィキペディア,2016年10月20日)

 しかし,オランダ語条文は次のようになっていて,イトルプ島(択捉島)より南の島も千島列島だと読むことができます.つまり,下の文章で「「・・ウロプ島全島は残りの,北の方の,クリル諸島とともに・・」となっているのが正確な文章だそうです.

 第二の条文はオランダ語条文です.

「これから後、境界はイトルプ(イェドロプ)島とウロプ島の間にあるべし。イトルプ全島は日本に属しそしてウロプ全島は残りの、北のほうの、クリル諸島とともに、ロシアの所有に属する。カラフト(サハリン)島について言えば、従来どおりロシアと日本との間に不分割のままにとどまる」(条約交渉で使われたオランダ語条文の翻訳:出典はウィキペディア)

<樺太千島交換条約>

 1875(明治8)年5月に樺太千島交換条約が署名され,千島列島が日本領土,樺太がロシア領と確定しました.1855年の日露通好条約の国境条項は失効しました.
 つまり,北方領土の原点は,平和的に結ばれた樺太・千島交換条約が基本になるのが妥当だと言えます.

 余談ですが,この条約を初代駐露全権公使として締結したのは,榎本武揚です.榎本は,この後ペテルブルグからウラジオストックまで,ロシアを横断して帰国しました.この時の記録が,「榎本武揚 シベリア日記」(講談社編,2008)です.この本を読むと,榎本が地形や地質について造詣が深いことが良く分かります.

<歯舞群島,色丹島について>

 歯舞群島,色丹島について,ロシアは小クリール群島(小千島列島)と称してクリール群島(千島列島)の一部と見なしています.
 しかし,1869(明治二)年,北海道に国郡制が設置された時,これらの島は根室国花咲郡に属していました.1884(明治十七)年に千島国色丹郡色丹村となりました.
 このように,歯舞群島,色丹島は歴史的にみても日本が実効支配してきた地域で北海道の一部であり,千島列島に含まれないと国際的にも認められてきたと言えます.

 これらの島の地質は,根室半島の続きで主に根室層郡が分布しています.これに対して,国後島,択捉島は知床半島の続きで,爺爺岳(国後島:標高1,822m),茂世路岳(択捉島:標高1,124m)などの活火山が存在します.さらに,その北の千島列島にも多く活火山があり,千島列島全体で18世紀初頭以降,噴火記録のある火山が32あると言われています.

 面積は「北方領土」で約5,000平方キロメートル,「北方領土」を除く中千島,北千島の合計が約5,320平方キロメートルです.これらの島を放棄するのが「北方領土」返還だとすると納得できないものがあります.

<参考にした図書など>

・石塚𠮷浩,千島列島の火山.
( https://staff.aist.go.jp/y.ishizuka/kuril/kurilindex/kurilindex.html )
 :千島列島の火山分布が示されています.北千島,中千島,南千島の区分も分かります.

・講談社編,2008,榎本武揚 シベリア日記.(講談社学術文庫)
 *樺太千島交換条約を締結した榎本が,1878(明治十一)年7月26日にペテルブルグを出発し,同年9月29日にウラジオストックに到着するまでの日記です.

・気象庁・日本活火山総覧(第4版)Web掲載版.
( http://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/tokyo/STOCK/souran/menu_jma_hp.html ) 
 *「もくじ」の後ろの方に「北方領土」として択捉島と国後島の11の活火山が載っています.

・田中俊明,1,991,千島列島と日本固有の領土−国後,択捉は千島列島の一部−.Studies in Languages and cultures,No.2.

・日本国外務省・ロシア連邦外務省,1992,日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集.
( http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/1992.pdf )

・不破哲三,1998,千島問題と平和条約.新日本出版社.
 *丹念に資料に当たり,「北方領土」問題を解決するには,どうすべきかを述べています.

・北方領土問題
( http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/index.htm )
 *非常に優れたウェブサイトです.正確な「北方領土」の知識が得られます.日本がポツダム宣言を正式に受諾したのは,1945年9月2日であることが年表に示されています.