台風一過2016/08/19 11:03

 8月17日,台風7号が襟裳岬に上陸し,温帯低気圧になって北に去って行きました.カムチャッカ半島の南東に高気圧があり,東に行くことができなくて,そのまま北上しサハリンへ行ったようです.

 18日,札幌は台風一過の晴天になりました.でも,午後には雲が多くなり,遠くの山の見通しはきかなくなりました.天気が良いので自転車ででかけました.


豊平川下流
写真1 国道275号雁来大橋から見た豊平川捷水路
 局地的・集中的に雨が降って水が濁っている.たまたま,寒地土木研究所の調査船が動いていた.


豊平川下流
写真2 豊平川捷水路右岸堤防から南を見る
 中央やや左遠くに恵庭岳,銀色の屋根は札幌ドーム.右の建物はゴミ焼却場です.堤防沿いに咲いている白い花は,野良ニンジンです.右の高水敷は牧草地になっています.水はここまでは上がっていません.


石狩川河畔林
写真3 石狩川20k付近の河畔林と入道雲
 まだ夏は続くようです.


石狩大橋
写真4 国道275号新石狩大橋は工事中
 新石狩大橋は,4車線化が進んでいます.交通量が多い割に幅が狭い橋で,自転車で渡るのは必死です.


石狩川低地
写真5 石狩川右岸の低地
 石狩大橋を渡った石狩川右岸から見た石狩平野です.もうすぐ稲が色づきます.


篠津運河
写真6 篠津運河
 篠津運河の正式名称は,篠津中央篠津運河用水と言います.新篠津村の石狩川頭首工から取水して,この篠津運河水門までの用排水路で延長は23kmです.この水門から下流は篠津川になり石狩川に注ぎます.篠津運河水門から上流を見ました..


石狩川
写真7 増水した石狩川
 豊平川捷水路が合流する付近の右岸から見た石狩川です.流れていくのは腐りかかった流木がほとんどで,根こそぎにされて流れていくものはごく稀にしかありません.右に雲がかかった手稲山,左に三角の恵庭岳が見えます.


石狩大橋
写真8 国道337号石狩大橋から上流を見る
 すぐ上流にはJR札沼線(さっしょう・せん),通称学園都市線の石狩川橋梁があります.


モエレ沼
写真9 モエレ沼
 最後はモエレ沼です.モエレ沼に架かっている橋の中で,ただ一つ歩行者専用の水郷北大橋の上から北西を見ています.1896(明治29)年の5万分の1地形図を見ると,この付近は河道跡が二つあります.その名残が,真ん中の島だと考えられます.


北海道 大学駅伝2016/08/21 16:03

 2016年8月20日(土),札幌市のモエレ沼公園の周回コース(1周3.3km)で北海道の大学駅伝が行われました.正式名称は,北海道知事杯 第28回北海道大学駅伝対校選手権大会です.
 男子は,101.06kmで第1区から第8区まであり,一番短い区間は,第3区の6.52km,最も長い区間は第9区の19.56kmです.
 女子は,35.86kmで第1区から第6区まであり,最短区間は3.26km,最長区間は9.78kmです.

 参加校は,男子が9校,女子が3校で,優勝は男子が北海道教育大学,女子が北翔大学でした.
 何と言っても話題の第一は,男子で北海道教育大学が13大会ぶりに優勝し11月6日の全日本大学駅伝(伊勢路)に出場することでしょう.札幌学院大学は2位,北海道大学が3位でした.

 午前中は曇り空で,あまり暑くなく良かったのですが,午後は雨が降り出し一時は篠突くような降りになりました.

 天気が良ければ最後まで見ようと思ったのですが,諦めて小ぶりになったのを見計らって帰ってきました.それでも途中で降られ,ずぶ濡れになりました.

 超1流選手が競うオリンピックも面白いですが,こういう大会でそれぞれの選手が一生懸命に走っているのを見るのは楽しいものです.

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鈴木選手
1.競り合う第2区の北教大の鈴木選手(赤のユニホーム)と北大の嶋田選手.
 鈴木選手がこの区間でトップに立ち,北教大がそのまま押し切り優勝しました.
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北大オープン参加チーム
2.北大のオープン参加チーム
 第8区までの選手を揃えての出場です.第2区の目良選手で,区間7位でした.
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柳原選手
3.北大・第3区の柳原選手
 区間賞を取りました.後ろは札幌学院大の齋藤選手です.
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澤上選手
4.北大・オープン参加チーム第3区の澤上選手
 6.52kmを走りきりました.
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次子第1走
5.女子の第1走者
 先頭から北翔大・明選手,北大・上田選手.北教大・宮武選手です.スタート前頃から雨が激しくなり,ずぶ濡れでのレースになりました.野球場裏のトイレの前で雨宿りしながらの撮影です.
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審判も大変
6.審判も大変
 暑さが厳しくないとはいえ汗もかいているでしょうし,おそらく全身ずぶ濡れでしょう.−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

アップダウン
7.アップダウン
 コースには3箇所のアップダウンがあります.ここは一番きつい登りですが,距離はそれほどありません.右手がモエレ山への224段の階段になります.
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日本人はどこから来たのか?2016/08/22 18:17



日本人はどこから来たのか?
海部陽介,日本人はどこから来たのか?.文藝春秋,2016年2月.

 著者は,現在,国立科学博物館 人類史研究グループ長である.

 この本では,まず世界のホモ・サピエンスの遺跡の信頼できる年代の地図を示す.中東の4.9万年前から始まって日本の3.8万年前までの遺跡分布図である.

 この図から分かることは,アフリカを出たホモ・サピエンスは,ヒマラヤ山脈を挟んで南と北のルートを辿って日本に到達した.この拡散は爆発的なものであった.

 拡散ルート上の遺跡から出た人骨を使っての検討も行っている.
 また,ホモ・サピエンスの遺跡であった証拠としては人骨のほかに装飾品や細石刃・骨角器などの遺物があり,これらの検討も行っている.

 日本への移入ルートは三つ考えられるという.
(1)当時大陸と地続きであった台湾から南西諸島を経て沖縄島へ到達した.(南方ルート)
(2)朝鮮半島から対馬を通って九州・本州に到達した.(対馬ルート)
(3)シベリアからサハリンを通って北海道に到達した.(北方ルート)

 最初に日本に移入したのは3.8万年前の対馬ルートからであったと考えられるが,このルートから移入した集団は,北方系文化の指標である石刃技法を持っていたこと,南方ルート由来の海洋渡航技術を持っていたことが文化的な面から注目される.

 このことを考慮すると,日本列島へ移入したグループは,ヒマラヤ山脈を挟んで南と北から拡散したホモ・サピエンスが混じり合って日本にやってきたと考えるのが妥当である.

 遺伝子系統樹によるホモ・サピエンスの移動は海岸ルートが基本で,これらの集団が内陸へと移動したと考えている.著者の唱えるルートはこれとは大きく異なっている.
 信頼できる年代が出ている遺跡を基礎に置いているので,著者の考えはかなり真実に近いように思う.


2016北海道マラソン2016/08/28 21:31

 今年も快晴のもと,北海道マラソンが行われました.
 むっとするような風ではなく,秋の気配を感じさせる風でした.でも,日差しはかなり強く走るにはちょっと辛い条件でした.

 このマラソンの売りは,やっぱり北大の中を南北に通る中央道路を走ることでしょう.40km地点が北大総合博物館前,かつての理学部の建物です.ここに給水所が置かれています.北大の南門から出て道庁赤レンガを遠くに見ながらゴールに向かいます.


14m地点のトップ集団
1.14km手前の男子先頭集団


40km手前の先頭
2.北大第二農場脇を走る先頭の選手
 北大の北18条にある第二農場の脇を走ります.新川通の木陰のないコースから,気持ちの良いコースになります.


北大中央通
3.北大の中央通を走り抜けます.


40km地点
4.40km地点
 給水する人で大混雑です.


北大南門
5.北大の南門から道庁赤レンガへ
 ここまで来れば,あと1kmちょっとです.でも,へばっているとこの距離でも歩くことさえできなくなります.
 9時スタートで,この時13時35分頃ですから,5時間の制限時間にどうにか間に合いそうです.これだけの人がフルマラソンを完走するのですから,見ているだけで感動します.


大野池のスイレン
6.北大・大野池のスイレン
 大野池は,サクシコトニ川の途中につくられた池で,その昔スケート場として学生が造ったものだと言います.北大中央道路のすぐ脇にあります.


本の紹介 風土記の世界2016/08/30 08:23


風土記の世界
三浦弘之,風土記の世界.岩波新書,2016年4月.

 風土記というのは,西暦700年代の初め(八世紀初め)に律令政府に提出された書物です.今,残っているのは,五つの国の風土記と後世の書物に引用された逸文(いつぶん)のみです.
 著者の考えでは,中国の歴史書に倣って紀・志・列伝の三部の「日本書」(にほんじょ)が計画されました.しかし,養老四年(西暦720年)に成立したのは「紀(帝紀)」 30巻と「系図」 1巻でした.これが日本書紀ですが,「日本書 紀」と「表」のみが完成し,「志」や「列伝」は完成しなかったと言います.

 ここで,「志」というのは,「紀伝体」の歴史書のうち,天文・地理・礼楽などを事項別に分類して記した部分」(デジタル大辞典)のことです.「礼楽」というのは,社会秩序を定める礼と,人心を感化する楽.」(同前)のことです.
 「紀伝体」というのは,「史記」など中国の正史の標準的な形式で,帝王の年代記である「本紀」,皇子や臣下の伝記である「列伝」,社会現象を記した「志」,年表や系譜などを記した「表」からなります.

 浦島太郎の話が日本書紀の雄略二十二年七月の条に出てくるそうです.その最後に「語(こと)は、別巻に在り。」と書かれていて,この別巻というのは「日本書 列伝」と考えるのが単純明快だと言います.

 和銅三年に平城京に都が移され,和銅六年(西暦713年)に律令政府が風土記撰録を諸国に命じました.「志」の編纂事業です.そこには,「あらゆる制度や空間的な広がりの中で把握された国家のさまが記される.」(本書21ページ)のです.「紀」や「列伝」が,「過去の時間(歴史)を記述した書」であるのと対照的です.
 
 ところで,一般的には記紀と称されて古事記と日本書紀が一組のものと考えられています.しかし,著者は古事記の「序」は後世の偽作と考えています.そう考えるのがもっとも論理的だと言います.「日本書 紀」と組になるのは,「志」に相当する風土記と考えるのが良いようです.

 和銅六年に出された撰録の命令は,六十一の国と三つの島に出されました.そのうち,まとまった形で残っているのは,常陸,出雲,播磨,豊後,肥前の五カ国のもので,逸文として残っているのは三十〜四十カ国だといいます.

 この本では,第二章で現存する風土記について概観し,第三章以降でそれぞれの風土記について述べています.
 風土記には,それぞれの国によって独特の味わいがあり,本書の帯に記された言葉「古代を知る何でもありの宝庫!」の内容が述べられています.
 現在行われている祭りの中には,この頃から続いていると考えられるものもあるということです.

 「日本」として国をまとめていく段階でも,地方には地方としての文化があることが具体的に分かり,非常に面白い内容となっています.